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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  15.東アジアの今後-対立と共存関係のゆくえ

15.東アジアの今後-対立と共存関係のゆくえ

 近年歴史研究のグローバル化が盛んになり、それに伴い歴史認識問題のグローバル化も進行中です。竹島尖閣諸島の領土問題、東アジア共通の危機といえる北朝鮮問題など総括します。

 

 日本は大平正芳内閣時代より、中国の改革・開放政策に理解を示し、経済的・技術的援助を行った。これに中国も感謝の意を表明し、日中友好ブームが起きた。そのような日中関係に変化がみられるようになったのは、1982年6月に起きたいわゆる「教科書事件」からである。また1985年に靖国神社A級戦犯が合祀されたことが明らかになると、中曽根首相の靖国参拝に対し、中国は激しい抵抗を示すようになるのである。翌年後藤田正晴官房長官が総理大臣の靖国参拝は差し控える旨を発表し、首相の参拝はそれから2001年の小泉純一郎首相の参拝までの15年間、行われることはなかった。1986年の第2次天安門事件後、西側諸国は一斉に中国から引き揚げ、経済制裁を実行する中、日本の宇野宗祐内閣は竹下内閣が決定した第3次円借款を凍結するなどしたが、アルシュ・サミットで「中国の孤立はない」と発言するなどし、西側諸国とは距離をおいた。短命に終わった宇野内閣の後を継いだ海部俊樹首相は、1990年訪中し李鵬国務院総理と会談した際、1,296億円の第3次借款の実行を約束した。海部内閣を引き継いだ宮澤喜一内閣の時、ついに長年の日中間の懸案でった天皇訪中が実現する。1972年9月に周恩来が上海空港に田中を見送った際、「天皇陛下によろしく」と伝えてから、じつに20年の月日を要し、日中国交正常化20周年の記念行事として実現したのである。1992年10月23日訪中した平成天皇は、歓迎晩餐会で「わが国が中国国民に対し、多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところです」と挨拶した。この言葉は中国で高い評価を受け、日本の歴史認識問題に対しても一つの区切りをつけることとなった。1993年8月、55年体制が崩壊し日本新党細川護熙が首相になると、就任早々先の戦争を「私自身は、侵略戦争で間違った戦争だと思っている」と述べ、その後羽田孜首相は「侵略行為」と「植民地支配」の認識を示し、この傾向は94年に首相となった村山富市の「村山談話」へと結実していくのである。中国が現在でも高く評価している、この村山談話には、「誤った国策にもとづく植民地支配と侵略」、「反省」と「心からのお詫びの気持ちを表明」という言葉が入り、中国との「記憶の共同体」を構築する可能性を示した。この談話は公式文書としては残されていないが、その後橋本首相から安倍首相に至るまで歴代の政権は、「村山談話」の基本精神を引き継ぐことを表明している。

 歴史学においては、E・H・カーが「歴史から道徳的判断を除去する」ことを主張したことからはじまり、1970年代から盛んになった「ポスト・モダンの歴史学」においては、「言説(ディテール)と歴史事実との関係を切断し、歴史的事実は所詮捉えられないものとする不可知論」を主張し、「事実の追及は放棄」するようになった。このような歴史学の傾向から歴史における「人間の責任の領域は狭められていき、ついには責任という概念は除去される」に至っている。歴史学においては「事実の追及」「道徳的判断」「責任という概念」が希薄になる傾向にあるが、一方で政治化した歴史認識問題では逆にこの点が重視される。東アジアにおいては、中国や韓国が主張する特定の歴史事象に対し、日本も同様の認識を持つことが当然であるという主張に、日本がどう対処するかが問題の本質となる。理論的には歴史認識は自然に認識するものではなく、「現在に結びついた全体的体験」を「統一的体験」として意識的に「了解」することから形成される。石田雄は「歴史事実」の中から「集団的記憶で支えられたもの」を「記憶の共同体」と規定し、この「記憶の共同体」は「集団的な記憶の過程で、(中略)制度的には歴史教育や国家的事業における象徴的祭典によって強められる」としている。中国の歴史教科書や南京大虐殺記念館、韓国の国定教科書や植民地歴史博物館などは、この「全体的な統一体験」を培い、引き継いでいく象徴とも言える。

 中国政府に高く評価された村山談話は、日本国内に反発を引き起こした。「日本を守る国民会議」は、高校教科書『新編日本史』を編集し、自虐史観を提起した。これが1986年に検定に合格すると、中国、韓国などから反発がおき、中曽根首相は「宮澤談話」にもとづく「近隣諸国条項」の精神で対応するよう指示したため、文部省は4回にわたり植民地支配などの内容の修正を求めた。その結果、検定合格を正式に決定した時には、同教科書の記述はかなり修正されていた。その後は「近隣諸国条項」に沿った侵略と加害行為に対する記述が、日本の教科書には詳しくなり、「従軍慰安婦」についての記述も載るようになる。このような中、1996年6月、自民党有志議員が「自虐的な」歴史認識や「卑屈な謝罪外交」の見直しを目的として、「明るい日本・国会議員連盟」を発足させた。また97年2月には自民党若手議員が「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が発足させ、「文部省や教科書会社に元慰安婦の記述削除を申し入れる方針」を決めた。民間からも教科書批判は激しさを増し、1995年12月には東京大学西尾幹二などが「新しい歴史教科書をつくる会」を発足させ、2001年4月に『新しい歴史教科書』と『新しい公民教科書』を編集した。これが検定に合格すると、中国は「大きな驚きと深い遺憾の意」を表明し、韓国も同様の抗議を行った。これまで教科書問題は主に政府間で処理されてきたが、このころからインターネットを媒体とした世論という要因が歴史認識問題に深く関与するようになった。インターネット上では相手国の批判と共に自国政府に対する批判も相次いで書き込まれるようになる。本教科書の採択率は2002年度で0.039%に過ぎなかったため、問題は沈静化し現在の日本の教科書は、中国や韓国と比べて、極めてバランスの取れた内容となっている。

 中国や韓国などから日本の首相の参拝を非難される「靖国神社」は、京都の招魂社が前身である。幕末期、鳥羽・伏見の戦いで死んだ薩摩・長州側の兵士を祀るために建立されたが、1969年6月、九段上に東京招魂社を建設した際合祀された。そこに祀られたのは官軍(倒幕軍)兵士の戦死者だった。79年明治天皇命名により靖国神社となり、天皇が参拝することが当然の認識であった。戦後GHQ政教分離主義の下、国家神道を廃止する決定をし、宗教法人法により靖国神社も宗教法人となった。昭和天皇は1945年から75年まで、靖国参拝を続けたが75年11月を最後に参拝を取りやめた。富田元宮内庁長官のいわゆる「天皇メモ」によれば、A級戦犯者が1978年10月17日に「昭和殉難者」として合祀されたことを知り、靖国参拝を取りやめたことが明らかになった。これに対し小泉純一郎元首相をはじめとする「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は、個人の心の問題を主張し、国のために犠牲になった兵士をお参りするのは、日本人として当然という立場に立ち、小泉も靖国参拝を公約とし参拝した。中国と韓国の反発は激しく、日中間は「政冷経熱」状態となる。次に首相となった安倍信三はこの事態の収束のため「戦略的互恵関係」を提案し、2007年4月には温家宝首相の訪日を実現させた。靖国参拝については、第2次安倍政権発足後の2013年の1回限りで、それ以降は行っていない。

 教科書問題や靖国神社参拝に反対する東アジア各国の主張には、それぞれの歴史認識が反映されている。中国においては、「戦争責任二分論」が「今日まで続く中国の対日大原則」であり、「対日公式イデオロギー」となっている。すなわち、戦争責任を一部の軍人にのみ呵してきた中国は、戦後も日本国民を一度も「敵」とせず、意識的に分明して語ってきたのである。中国が日本の首相の靖国神社参拝にあくまでも反対する理由は、この認識とA級戦犯合祀問題が完全に矛盾するからである。よって、A級戦犯合祀が明らかになるまでは、中国は首相の参拝に抗議することはなかった。

 中国の靖国神社参拝批判と韓国・台湾の批判は、性質を異にする。中国にとって日本は対戦国であったが、台湾と朝鮮は日本により植民地支配され、日本兵として徴兵された歴史を持つ。徴兵により戦地に赴き、戦死した台湾・朝鮮の人々が日本名で靖国神社に合祀されており、遺族から抗議されている。2001年6月、韓国や台湾の元軍人・軍属の遺族252名が、日本に対し戦争賠償金24億円を求めて訴訟を起こし、そのうち55人の原告は合祀の取り消しを求めた。しかし、靖国神社側は神道では一度合祀した御霊を取り出すことは宗教の教義上できないとし、分詞は困難となっている。また、台湾では2003年2月「高砂義勇軍」合祀反対訴訟が行われた。台湾原住民である高砂族による日本軍部隊「高砂義勇軍」は、戦争末期にフィリピンやパプアニューギニアなどの前戦に送られたが、合祀をめぐり訴訟を起こしたものである。

 台湾の歴史は複雑だ。原住民と漢民族との問題、省籍矛盾は根深い。大陸で日本と戦い、終戦後に台湾に移住してきた人々の歴史と、「大日本帝国台湾県」の人々の歴史は大きく異なる。日本統治時代の呼び方について、近年激しい議論が展開されており「日拠(違法性、不法占拠を強調する言い方)」か、「日治(日本統治)」のどちらを学校教科書で使うかが問題となった。2013年、馬英九政権は行政文書では「日拠」と書くという見解に改めた。台湾においても記憶の共同体の形成は極めて困難だ。

 日本政府の公式見解では、日本が抱える領土問題は北方領土竹島の2つである。竹島は1905年1月、明治政府の閣議決定により島根県編入されたが、現在は韓国の実行支配下にある。1951年のサンフランシスコ講和会議で、韓国は日本の竹島放棄をアメリカに申し入れたものの認められず、平和条約では日本の領土と決定し、竹島を爆撃訓練所として使用する協定を日本と結んだ。この状況下李承晩大統領は、52年に一方的に「李承晩ライン」を設定し、この水域の内側に竹島が含まれていたのである。同ラインは1965年の日韓基本条約で廃止されたが、韓国の実行支配は続いたままであり、日本は国際司法裁判所への付託を提案しているものの、韓国側は「独島(竹島)に領土問題はない」として拒否し未解決のままである。

  中国との間には領土問題は存在しないというのが、日本政府の見解だが中国側は尖閣諸島(魚釣島・北小島・南小島・久場島大正島と3つの岩礁からなる)の領有を主張し、海警部の活動を活発化している。1985年永、らく無人であった尖閣諸島を、明治政府が「無主地先占」を宣言し沖縄県編入、実効支配を開始した。日清戦争の最中であったことで、清朝はこれに抗議できなかったというのが中国側の主張である。96年、民間人の古賀辰四郎に30年間無料貸与され、古賀は剥製工場・鰹節工場・珊瑚の加工工場を建設した。1909年には248名99戸世帯が生活していたが、1932年古賀は日本政府から払い下げを受け、2,150円50銭で買い取っている。1940年からは再び無人島となり、サンフランシスコ平和条約尖閣諸島は日本の領有が認定され、1972年の沖縄返還まではアメリカ軍の射撃訓練場になっていた。尖閣諸島が問題化したのは、ECAFEが1968年に、同列島の大陸棚における石油・天然ガス埋蔵の可能性を発表してからである。これに対し台湾は、尖閣諸島海洋資源は大陸棚の連なる台湾に主権があるとして、魚釣島中華民国の国旗を立てた。71年12月には中国外交部は同列島は台湾の付属島嶼であるとし、公式に中国の領有権を主張し、沖縄返還を前に中国に対する領土侵犯だと抗議した。当然。1972年9月の日中国交正常化交渉においても話題に出たが、周恩来は正常化を優先し尖閣問題は「棚上げ」、正常化後に解決すべき問題と田中角栄に提案した。田中も暗黙の了解を行い、共通認識を持ったというのが中国側の見解だが、外務省はあくまで尖閣諸島は日本固有の領土故にそのような事実はないとしている。そのような状況下、石原元都知事が私有地だった尖閣諸島を当時の持ち主から東京都が買い取る交渉を行い、島に港湾施設を建設する計画を発表した。驚いた野田首相は、2012年9月、急遽国有化に踏み切る。買い取ったのは3島(魚釣島、北小島、南小島)で20億5,000万円であった。このとき中国では激しい反日デモ日本製品不買運動が起きた。その後は中国海警部の船による接続水域の航行、それに海上保安庁の巡視船が警告を発するという状況が続いている。




尖閣竹島北方領土。領土は魔物である。目を覚ますと、ナショナリズムが燃え上がる。経済的不利益に、自国の歴史を冒涜されたという思いも重なり、一触即発の事態に発展しやすい。戦争はほぼすべて領土問題に端を発する―。日本の安全保障を研究・分析した外交と国防の大家が平和国家・日本の国益に適った戦略を明かす。

 

 中国の国家統一問題は改革・開放期の一つの目標である。香港は1997年に、マカオは1999年に中国へ返還され「一国二制度」が開始されたが、鄧小平の「50年間の現状維持」の約束は反故にされた。香港では大陸からの観光客のマナー問題や商品の買い占め、不動産の高騰などにより「中港矛盾」が起きており、2014年10月にはいわゆる「雨傘革命」を民主化を求める学生が起こした。その後香港では民主的発言や政治活動が極めて困難な状況になっている。2019年3月に出された「逃亡犯条例改正案」をめぐり、一般市民も参加する大規模なデモが起きている。そして、2020年6月30日、多くの反発を受けた香港の国家安全法が施行され、「一国二制度」は事実上崩壊した。この法案により、中国政府に反発する言動は犯罪とみなされ、処罰の対象となった。若者を中心に広がっていた民主化デモも、今後はできなくなるとみられる。

 このような香港の状況は、台湾にも影響を与えている。1995年、江沢民国家主席は「八項目の提案」を行い、台湾独立に対しては武力行使で反対するとした。台湾の李登輝総統は、中国の提起した香港型の一国二制度を拒否し、「両岸は平等な立場」であると主張した。同年、李登輝が訪米した際には中国は台湾に向けミサイル発射訓練を実行している。1996年、台湾で初めての総統直接選挙で李登輝が当選すると、中国は再びミサイルを発射(第三次海峡危機)した。李登輝は「台湾は現在分裂、分治状況下にある主権国家」「二つの政治実体」との認識を示し、99年には「二国論」を展開し中国は激しく批判した。2000年3月、台湾独立派の陳水扁が総統に当選したが、中国が武力攻撃をしない限り、任期内の独立はないと発言し、緊迫化した台中関係の鎮静化を図った。しかし胡錦濤国家主席は、2005年3月、独立阻止を目的に「反国家分裂法」を制定した。これに対し台湾では百万人規模のデモが起きたのである。2008年、中国国民党馬英九が総統になると、両岸関係は飛躍的に進み台湾と中国各地との直行便の運航、観光客が急増しビジネス関係も往来が活発になる。2010年には両岸経済協力協議が締結され、経済関係が更に密接となり、台湾に中国バブルを一時もたらしたが、香港同様不動産等の物価の高騰を招いた。このような中国との経済的一体化に対する「疑義」から、2014年3月「ひまわり学生運動」が起き、国民党は選挙で大敗、16年5月民進党党首の蔡英文が総統に就任し、中国とは距離を置く政策をとった。2012年習近平が総書記に就任した。2019年1月、「台湾同胞に告げる書」において、「習五点」と呼ばれる新台湾政策を発表し、「一国二制度」による平和統一を建国百周年(2049年)までに実現させること、「武力使用の放棄」は約束しないが、その対象は外部勢力の干渉と「台独」分子であること、中華文化圏のアイデンティティを増進させることなどを発表した。これに対して蔡英文総統は、4月9日、米シンクタンク戦略国際問題研究所」(CSIS)がワシントンで「台湾関係法」制定40周年と台米関係をテーマに開催するシンポジウムに、ビデオ通話の形式で参加し講演を行い、地域安全保障の共有をアメリカや日本と行う可能性を語ったのである。2020年1月11日、総統選挙の投開票が行われ、蔡英文が再選を果たした。中国との関係が最大の焦点となる中、約820万票(得票率57%)を獲得して圧勝した。中国に強硬な姿勢をとっている蔡総統は勝利演説で、台湾を力ずくで奪還するといった脅しを放棄するよう中国側に求めた。