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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  12.東アジアの経済発展-政治と社会、相互関係の変容

12.東アジアの経済発展-政治と社会、相互関係の変容

 台湾、中国、韓国はそれぞれ1980年代から経済発展していきます。それに伴って台湾、韓国では政治的な民主化も進みましたが、中国では改革・開放政策により社会構造も変化していきます。東アジアの新時代と国際関係はどのように変容していったのでしょうか。

  

 1976年、周恩来の死去に伴い発生した第一次天安門事件では、鄧小平が事件の陰謀者とされ、すべての職を解任された。代わって党第1副主席に任命された華国鋒は、同年死去した毛沢東の後継者とされ、四人組逮捕直後の政治局緊急会議により、党・政・軍の三権を掌握した。毛沢東路線を継承した華の政策は「二つのすべて(毛主席の行った決定はすべて断固守り、下した指示はすべて収支かわらず従う)」と呼ばれた。

  1977年、華国鋒により職務復帰を提案された鄧小平は、共産党中央に手紙を書き「二つのすべて」の誤った観点を指摘し、「実事求是(事実に基づいて物事の真実を追求する)」を対立概念とした。1977年7月には鄧小平は完全復活を果たし、8月の共産党11全大会で華は文革終結宣言を行い、新しい党規約が採択された。ここで、周恩来が提起した「四つの近代化」の実現と社会主義強国建設を目指すこと、そのために「広範な知識分子およびその他の勤労大衆と団結する」必要があり、「階級闘争・生産闘争・科学実験の三大革命運動」継続させることが決定された。このことは、文革は終わったが階級闘争は継続するという印象を与えた。この時期、毛沢東の腹心の部下とみられていた胡耀邦が中央組織部長に任命されている。鄧小平は、1978年になると四つの近代化の重要性を説きながら権力基盤を固めていく。「実事求是」を強調し「二つのすべて」を繰り返し批判することで、第1次天安門事件を「完全な革命行動である」という評価へ逆転させ、華国鋒の求心力を失わせていった。

  中国共産党11期3中全会に先立つ中央工作会議の席上で、鄧小平はいわゆる「先富論」の講和を行った。それは次のようなものである。

  私は、一部の地区、一部の企業、一部の労働者・農民が、その勤勉によって好成績をあげた場合、他に先立って高い収入を得、よい生活を送れるようになるのを許すべきだと考える。一部の人の生活が先に良くなれば、模範を示す大きな力が生じて、周囲に影響を与えるだろう。そうなれば、他の地区、他の職場の人びとは必ずそれを見習おうとすることになる。

  これが、経済発展の原動力となると同時に格差を生み出す原因ともなった先富論であり、鄧小平の先富論を実行した「改革・開放」期の幕が開かれた。

  さて、「改革・開放」とはそれではいったい何なのか。「改革」は、既存の支配体制の継続・強化が目的であった。よって共産党の一党支配を存続させ、政治体制が堅持されることを前提とした。鄧小平は、現在も党の基本的指針となっている「四つの基本原則」を提起する。そこでは社会主義の道の堅持、人民民主独裁の堅持、共産党の領導の堅持、マルクス・レーニン主義毛沢東思想の堅持、が基本原則とされた。この理論的枠組みにおいては社会主義である限り、理論的にも制度的にも、実質的にも共産党の領導が容認されることとなり、中国共産党は決して社会主義の看板を下ろさない、ということになった。また「開放」とは外国との貿易の活発化、投資の受け入れを意味し、中国は文革時代の鎖国状態を終わらせ対外開放を行っていく。当時、世界の潮流として経済発展が政治的な民主化をもたらすと予測されたが、四つの基本原則に則り共産党の領導体制を死守した中国は、この潮流に乗ることはなかった。

  鄧小平・胡耀邦趙紫陽による集団指導体制を確立した共産党は一党支配体制の継続を企図し、改革・開放政策を盛り込むため、1982年、中華人民共和国憲法を改正した。この「82年憲法」の特徴は、序言において「中華の復興」を明文化したこと、台湾との統一を意識し「孫文」「中華民国」を始めて憲法に登場させたこと、「中国的特色ある社会主義」建設を提唱したことがあげられる。また、本文においては、社会主義国家であることが強調され、愛国主義教育推進と人口抑制政策を国家が指導することを明記した。ここからわかることは、改革・開放政策の初期段階では経済面でも社会主義の枠組みの中での改革であったという事である。

  1976年、中国では9月に毛沢東が死去し、10月には四人組が逮捕されていたころ、日本はロッキード事件で政界に激震が走った。日中国交正常化の立役者となった田中角栄は、国会で金脈問題を追及され総辞職し、三木武夫が組閣した。76年2月、ロッキード事件が表面化すると徹底究明の姿勢をとったが、これにより党内右派の不満が爆発、「三木おろし」の嵐のなか12月総選挙に突入、自民党単独過半数を割る大敗を喫し、責任をとる形で退陣し、福田赳夫内閣が発足した。

  福田は田中、三木のやり残した日中平和友好条約締結という懸案処理が使命であった。1972年の「日中共同声明」はあくまで声明であり、正式な条約締結ではなかったのである。78年2月から交渉は開始され8月12日北京で締結された。3日後の8月15日、福田首相靖国神社に参拝した。この時、中国側から批判はなかった。中国は蔣介石同様「戦争責任二分論」を主張していたため、「一般の兵士」のみが祀られていると思われていた靖国神社への日本の首相の参拝には、違和感がなかったのである。因みに靖国神社A級戦犯を「昭和殉職者」として合祀するのは1978年10月17日で、鄧小平が来日する直前だった。宮廷晩餐会の席上、昭和天皇の「長い歴史の中の不幸な時代」というお言葉に対し、鄧小平は「過去よりも今後の平和関係を」と述べ、未来志向の姿勢を示したのである。因みに昭和天皇A級戦犯合祀が明らかになった後は、靖国への参拝を行わず「それが私の心だ」というメモを残している。

  このような中国側の歴史認識は、1982年に起きたいわゆる教科書事件で一変する。6月26日、朝日、読売などの主要新聞が、文科省が83年度に高校で使用される歴史教科書の検定結果について、「中国への全面侵略」を「全面侵攻」に、「出兵」を「派遣」などに改めさせたと報道したのである。それらの報道は後に記者の「誤報」であり、マスコミの過剰反応であったことが明らかになったが、報道を受けて『人民日報』は6月には、「日本文部省が検定した教科書は歴史を歪曲し侵略を美化する」という記事を掲載し、8月には南京大虐殺に関する実録記事を掲載し、「あの侵略戦争が両国民にもたらした災厄と苦痛を決して忘れてはならない」と強調したのである。鄧小平は85年8月15日に南京大虐殺記念館をオープンさせている。

  1985年にA級戦犯靖国神社合祀が判明し、中国側の反発にもかかわらず中曽根首相が8月15日公式参拝に踏み切ると、このころから日中間の歴史認識は、教科書、南京、靖国参拝をめぐる問題に焦点化していくのである。1987年6月4日、鄧小平は「日本は世界で一番中国に借りが多い国」「我々は国交正常化の時に戦争賠償の要求を出さなかった」「日本は中国の発展を助けるためにもっと貢献すべき」との見解を示し、この要求にこたえる形で竹下登内閣は、88年8月8,100億円の対中円借款に合意し「中日友好環境センター」建設計画(105億円の無償援助)などの決定に踏み切った。

  日中国交正常交渉時の外務大臣であった大平正芳は、1978年12月組閣し79年12月に訪中した。鄧小平、華国鋒と会談した大平は「日本が過去の戦争で中国人に与えた大災難に責任を痛感し、深い反省の上に立って、平和に徹する」旨を述べた。国交正常化交渉時より、中国の評価が高かったこの大平の歴史認識は、「軽すぎる」とされた田中のそれを補うものとなる。大平は中国の改革・開放、近代化建設への協力を表明し、500億円までの円借款及び「中日友好病院建設計画(160億円の無償援助)」申し出る。大平は、2018年の「改革開放40周年記念大会」において、「日中国交正常化と改革開放の発展に多大な貢献をした」と高く評価されている。そこでは、鄧小平が大平との会談時、池田勇人内閣が所得倍増計画を実行し、経済発展したという話を受けて「小康社会」建設のヒントを得、「中国式の現代化建設」の方向性が形成されたというエピソードが明かされたのである。かつての敵国からの資金援助に対しては、当時共産党内部でも懐疑的意見が多かったが、1982年の教科書問題からは「当然」の事と受け止められるようになっていった。

  日本が中国の近代化に貢献したことは、2007年4月に来日した温家宝が日本の国会での演説時に初めて述べられた。この時日本は第1次安倍内閣であったが、安倍は首相になると初めての訪問先に中国を選び、未来志向の「戦略的互恵関係」の構築を提案しており、温家宝の訪日はその返礼の意味があった。前首相の小泉純一郎は、在任中毎年靖国神社に参拝し、江沢民国家主席の下中国では反日デモも頻発していた。日本の援助が中国の近代化に貢献したことを認め、歴史認識においても日本の謝罪態度を高く評価した温家宝の演説は、当時の情勢においては画期的であったといえる。

  東アジア諸国との戦後処理において、日本は戦争賠償は行わなかった。それは、最大の当事者である中華民国の蔣介石が、賠償請求をすれば日本国民が貧しくなり、結果共産主義がはびこり、日本が社会主義化する可能性があると判断し、賠償請求しなかったためであり、中国も蔣介石の「以徳報怨」を意識し賠償請求を放棄したためである。戦後、日本が民主化し、経済発展することが日本の赤化を防ぎ、東アジアが安定すると、蔣は考えていたのである。

  韓国に対しては、1965年6月に佐藤栄作内閣と朴正煕内閣との間で日韓基本条約が締結され、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の巨額の援助資金と引き換えに、韓国側は賠償請求権を放棄した。ベトナム戦争特需と相まって、朴大統領の開発独裁体制下で韓国は急速に経済発展する(漢江の奇跡)。1979年、朴が暗殺されるという突発的事件により朴政権は一挙に崩壊した。大統領代行に就任した崔圭夏総理は早期の改憲民主化を約束し、学生を中心に民主化運動が展開され、「ソウルの春」と呼ばれた民主化ムードが漂った。文民出身だった崔圭夏は、1980年2月に公民権回復措置を発表し、これまで政治活動を規制されていた金大中等の反体制派人物の政治的自由が回復された。金大中、金泳三、金鐘泌のいわゆる三金が次期大統領に名乗りをあげ、政治活動が本格化し、学生運動や労働運動が活発化したのである。

 民主化運動が活発化する一方で、朴正熙前大統領の寵愛を受けていた全斗煥盧泰愚を中心とする新軍部勢力は政治への関与の動きを公然化させた。1979年12月、全斗煥盧泰愚等が結成していたハナ会は粛軍クーデターを起こし、翌1980年5月には非常戒厳令を全国に拡大すると、軍部内での権力掌握に成功する。新軍部に抗議して大規模な学生デモが発生したが、これら民主化運動を武力弾圧(光州事件)すると、同年8月崔圭夏大統領は新軍部の圧力の下に辞任、9月1日には全斗煥将軍が統一主体国民会議代議員会で第11代大統領に選出された。

 全斗煥大統領は、アメリカのジミー・カーター大統領との冷え切った関係再構築のために、戒厳令を解除し民主化の象徴的存在だった金大中の刑を減刑して、1981年2月に訪米し関係を回復させた。アメリカや日本との関係改善に成功し、ソウルオリンピックの開催など経済も順調に発展するに伴って、民主化の要求も高まっていく。大統領直接選挙のための憲法改正要求が大きくなる中、全斗煥改憲の延期を発表し次期大統領に盧泰愚を候補として推した。この決定に全国で抗議デモが発生し、盧泰愚は「6.29民主化宣言」を提起、1987年12月に直接選挙により盧泰愚が大統領に当選した。

 台湾においては、1978年、改革・開放が開始した同じ年に蔣経国が総統に就任した。経国は、中華民国が置かれている厳しい国際環境の下、台湾の団結のために「台湾化」を企図する。すなわち、「戦後20年の社会・経済発展の中で上昇してきた本省人のエリートを、積極的に取り込み、政権の支えとする」新たな人事政策を実行した。経国が総統就任時に、次期総統となる李登輝台北市長に任命したのも、この人事政策の一環であった。李登輝本省人京都大学農学部出身、コーネル大学大学院で博士号を取得していた。1984年、総統に再任された経国は副総統に李登輝を選び、85年には蔣家が総統職を継ぐことはないと明言し、「党禁」の解除、「政党・結社の自由」を実行するなど、民主化の一歩を踏み出す。87年7月には38年続いた戒厳令が解除され、11月には中国大陸への里帰りが認められた。88年1月、経国が死去し李登輝が総統に就任し李登輝総統の下で台湾は民主化が進んでいくこととなる。


新渡戸稲造の『武士道』には、現代の日本人が忘れてしまった普遍的思想が貫かれている。その深遠な日本精神を、戦前日本の教養教育を受けて育った台湾の哲人政治家「李登輝」が、古今東西の哲学知識を総動員して解説する。 ノーブレス・オブリージュ―高貴な身分の者に課せられた義務。著者は「武士道」の本質をそこに見出す。

 

 改革・開放政策が実施された中国では、政治的民主化にも期待が高まっていった。1978年春から天安門広場には壁新聞が張り出されるようになる。その内容は次第に民主主義を評価する政治的なものが多くなっていき、「民主の壁」と呼ばれるようになった。鄧小平は当初これを容認していたため、言論は活発化、過激化していった。12月民主活動家である魏京生らが民主化要請の政治的主張を張り出す。魏京生達のような民主活動家の中心はかつての紅衛兵であり、下放された経験から、文革に裏切られ大学進学の機会も失っていた。魏らが主導したいわゆる「北京の春」は、しかし極めて短命に終わった。魏は1979年3月には逮捕、投獄され12月には壁新聞が禁止された。共産党はその後民主化運動の鎮静化を図り、「整党」により共産党内部の腐敗汚職問題に着手することで、民衆の批判をかわそうとした。このころ、先富論による格差が出現し、インフレや「官倒(官僚のブローカー行為)」も激しくなり、民衆の不公平感が高まっていく。

 その中、「民主と法制」のスローガンのもと政治改革を訴えたのが、党内民主派の胡耀邦であった。民主化を求める学生運動も全国規模で広がったが、方励之のような党員で科学大学副学長といった人物達が、この運動に関わっていたのである。これに対し鄧小平は学生運動に厳しい講話を発表し、87年胡耀邦は総書記の職を辞任、方励之は共産党を除名された。1989年4月、胡耀邦が発作で突然死すると、中国法政大学の学生・教師による胡耀邦追悼のデモ行進を皮切りに、各地の大学でデモ行進が行われた。学生らは胡耀邦の「遺志を継承」すべく、政治的民主化を要求し天安門でハンガー・ストライキを行うようになる。5月20日北京市戒厳令が出され、装甲車で武装した人民解放軍が進駐すると、6月4日には天安門広場に到着し突入態勢をとった。この時北京師範大学講師の劉暁派などが学生を説得し、撤退させることに成功した。劉は反革命罪で逮捕投獄され、学生リーダーたちも逮捕され亡命したものもいた。この第2次天安門事件による負傷者、死亡者数はいまだに明らかになっていないが、西側諸国は中国を強く非難し、先進国による経済制裁により中国は孤立、改革開放は挫折を迎えた。

 反右派闘争、文革天安門事件を経験した中国人民は、政治を語ることは危険であるという「学び」のなかで、アパシー(無気力・無関心)が蔓延し、経済活動に邁進するようになっていく。中国では現在、天安門事件という言葉を使わず、歴史教科書にも記載されていない。中国の若者には事件そのものを知らない人も多いのである。1979年以降、経済的急成長を達成した中国は、1990年12月、国民経済の目標を「温飽」から「小康」へと転換した。共産党はこれを改革・開放の最大の成果と評価し、鄧小平は「小康」社会実現のため、市場経済の全面的な開放に向けて歩き出すのである。