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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  11.日中国交正常化と東アジア国際関係の変容

11.日中国交正常化と東アジア国際関係の変容

 1970年代、アメリカと中国はどう接近していくのか。また中華人民共和国の国連加盟と中華民国の脱退、翌年の日中国交正常化が東アジアの国際関係の変容に与えた影響について考察します。

 

 1966年、毛沢東文革発動後ソ連との対立を深め、紅衛兵が北京のソ連大使館を襲撃するなどしていた。これに対しソ連は中国人留学生を国外退去処分とするなどし、中ソ関係は一触即発状態であった。68年8月に起きたチェコ事件(「プラハの春」)後は、中国共産党がこれを侵略行為とし「社会帝国主義」「覇権主義」と激しく非難した。その後も中ソ両軍は武力衝突を繰り返し、ソ連が核攻撃を示唆すると毛沢東は北京などの主要都市に核シェルターとなる地下街の建設を命じた。その中、1969年9月ソ連のコスイギン首相と周恩来との会談が空港のラウンジでもたれた。周恩来は、ロシアとの条約の不平等性、その条約によりソ連が得た領土は返還請求しないこと、国境問題を解決しソ連軍の即時撤退することを提案したが、その時は提案を受け入れたコスイギンは帰国後激しい中国批判を再開する。このソ連の脅威を背景に、中国はアメリカに接近していく。1970年10月、毛沢東の半生記である『中国の赤い星』の著者であるアメリカ人のエドガー・スノーを、周恩来は中国に招いた。スノーは帰国後中国側の要請を大統領に伝え、ニクソン大統領はキッシンジャー大統領補佐官の訪中を打診する内容の公式文書を、パキスタンのヤヒア・カーン大統領に託したのである。1971年7月、ついにキッシンジャーの訪中が実現する。公式にはパキスタン訪問中としていたキッシンジャーは、秘密裏にパキスタン政府の専用機でイスラマバードから北京に飛び、ニクソン訪中を正式決定させた。ニクソンキッシンジャー帰国直後、「翌年の5月までに中国を訪問するつもりである」ことをテレビ演説で発表した。いわゆる「ニクソン・ショック」は全世界に衝撃を与えた。また、台湾にも衝撃は走った。駐米中華民国大使であった沈剣虹はロジャース国務長官から電話で、「アメリカは友人を裏切らない。今後米中関係は更に密接になる。アメリカは中米防共同防衛条約の各義務を固く守る」との説明を受けた。また、蔣介石は翌日「見苦しい言い訳」の電報を受け取ったと日記に記している。

 周恩来は国連での代表権を中華民国から引き継ぐべく、アジア・アフリカ諸国の承認を得るための外交を着々と進めていた。1971年には中国承認国は63となり、中華民国の62をついに上回った。蔣介石は事態の推移を焦る気持ちで見守っていたが、アメリカの「二つの中国」「二重代表権案」には断固拒否の立場だった。もちろん周恩来もこの案を激しく非難した。蔣介石は、中華人民共和国が代表権を獲得し、安保理常任理事国の地位を得て、中華民国が一加盟国になる状況を危惧していた。

 1971年10月25日、国連第26回総会において「アルバニア決議案」(国際連合における中華人民共和国の合法的権利の回復)が可決された。賛成73、反対35、棄権17であり中華人民共和国が2倍以上の支持を得たことになる。日本の佐藤内閣は「中華人民共和国の国連加盟には賛成、中華民国議席追放には反対」を基本政策に、「二重代表決議案」をアメリカと共に提案していたが、評決すらされず蔣介石の言う「幼稚な幻想」に終わる。日本、アメリカはアルバニア決議案には反対票を投じている。

 蔣介石は「漢賊不両立」「毋為瓦全」の精神から国連からの脱退を事前に検討していた。よって10月5日から、蔣介石は張羣らと国連脱退宣言をすでに起草していた。国連総会即日に国連自主脱退した中華民国はその後台湾として、国際社会においては国ではなく、特殊な地域として今日に至っている。

 1972年2月、ニクソン大統領が訪中した。中米間の最大の問題は台湾であった。台湾問題を内政問題とする中国と、アジアの安全保障の一環とするアメリカとの対立の溝は深く交渉は難航した。周恩来は「小異を捨てて大同につく」の外交の基本姿勢で、台湾問題を「棚上げ」にし、アメリカとの国交正常化実現の提言を行った。しかし、周恩来の思惑通りにはことは進まず、ニクソンが帰国直前に発表したいわゆる「上海コミュニケ」では、国交に関する規定は入れられず、台湾問題に関しては互いの主張を「声明」として盛り込むことに留まったのである。米中首脳会談の結果に不満の残った周恩来は、次なる外交目標すなわち日中国交正常化の達成を急ぐことになるのである。

 戦後、アメリカへの追従外交政策に徹してきた日本にとって、米中の接近は大きな衝撃であり、自民党には「取り残された」感を与えた。ニクソン訪中後の1972年7月、佐藤から内閣を引き継いだのは田中角栄であった。田中は就任直後「中華人民共和国との国交正常化を急ぎ、激動する世界情勢にあって、平和外交を強力に推進する」との首相談話を発表し、日中国交正常化に積極的な姿勢を見せた。中華民国と太い人脈を持っていた佐藤内閣とは違い、田中内閣は台湾との関係が弱かったため、田中は台湾との国交断絶に割り切りを見せたが、自民党内の親中華民国派の議員たちはこれに反発した。1895年の下関条約により割譲された台湾は、日本にとって植民地以上の存在となっており、台湾への強い思い入れは「二つの中国」「台湾帰属未定」論に結実したともいえる。台湾への特使として選ばれた副総裁の椎名悦三郎でさえ、日中国交正常化における日本の立場を完全には納得していなかった。椎名は「最善の方策として、日本は日本流に、まず台湾との国交関係は現状のまま維持し、新たに中国との国交を開く方式」を考え、それを中国に強硬に迫るべきと思案したといわれる。しかし、この点に関して周恩来は断固譲歩しない態度で臨み、椎名の台湾訪問を準備段階からけん制している。椎名の訪台は田中訪中のわずか1週間前であり、失敗は許されない背水の陣であった。椎名の訪台に当初同行取材を申し込んだマスコミは11社だったが、中国側の「台湾に行った人は、北京での仕事が難しくなるのではないでしょうか」という一言で、そのうち6社が直前になって取材を取りやめている。それにはNHkも含まれており、椎名は困惑を隠せなかったといわれている。当時日本の政治家もマスコミも「北京恐怖症」にかかっていたのである。

 台湾では1972年6月に蔣介石の長男の蔣経国が行政院長に就任し、それまで外省人に独占された政治体制を改革し、本省人と若手を起用する政策を実行していた。蔣介石はこの時期、経国に政治を任せ表舞台から退くようになっていた。国連脱退、ニクソン訪中、日中国交正常化への動きは蔣の体調を悪化させ、1912年から毎日欠かさず綴っていた「日記」も7月21日が最後となった。椎名訪台は断交交渉と受け止められていたため、市民レベルでも反対運動が起き、政府要人達も厳しい対応だった。この時経国が最もこだわったのが「日華平和条約」の廃棄問題であった。条約の廃棄は、戦後の東アジアの国際関係の否定を意味したからである。ところが、19日の座談会での椎名の発言で状況は一変する。椎名は「日中正常化の協議会におきまして、相当に鋭い論議が交わされた結果、従来の関係とは外交関係を含めて、その他あらゆる関係と共に、従来の通りに、これを維持していくと、そういう前提において、両国間の折衝を進めるべきである」と述べたのである。長年友好関係にあった中華民国に断交を告げるのは忍びなかったのであろう椎名は、このような玉虫色の発言をしてしまったのである。当然日本政府の意向とこの発言の主旨は明らかに相違していたため、台湾側は安堵するも周恩来は「二つの中国」を認めるものだと激しく抗議した。大平外相は、椎名発言は台湾に対する儀礼的なものに過ぎないと述べ事態収拾を図った。

 1972年9月25日、田中角栄首相は大平正芳外相らと訪中した。この時末期がんに侵されていた周恩来は、国交正常化実現を急いでおり、田中の滞在予定の9月30日までに決着させたいと考えていた。到着当日に首脳会談を設け、「復興三原則」(中華人民共和国の合法性、台湾は中国の領土の不可分の一部であること、日華平和条約の廃棄)を提示した。周はこの原則が認められれば、ほかの問題には触れない方針であり、尖閣諸島問題は「棚上げ」とし歴史問題には譲歩、賠償請求権は放棄すると決定したのである。

 1972年9月29日、日中両国は「日本国政府中華人民共和国政府の連合声明」(「日中共同声明」)に調印し、国交正常化を声明した。争点だった「日華平和条約」の廃棄と戦争終結問題は、周恩来の譲歩により「不正常な状態」の終了で決着した。また、周恩来は「戦争賠償の請求を放棄すること」を宣言し、日中国交正常化は成功裏に終わったかのように思われた。

 しかし、田中訪中は日中間に新たな火種を残す。いわゆる歴史認識問題である。周恩来は「戦争責任二分論」の基本姿勢に立ち、歴史問題を表現したのに対し、田中は「不幸な経過」「多大な迷惑」「深い反省」という表現で歴史認識を示したのである。この田中の言葉は、宴席上で通訳により「麻煩」と訳されたが、「麻煩」とは「面倒をかける、手数をかける、煩わす」意味であり、中国人にとっては極めて軽い言葉であった。通訳の口からこの言葉を聞いた周恩来は表情が変わり、その夜激怒したと伝えられる。日中間の歴史問題は、この「麻煩」という極めて軽い「お詫び」の言葉から始まることとなった。

 周恩来文革で失脚した鄧小平の名誉回復のため、1973年3月に副総理に復帰させた。周・鄧時代再来に危機感を持った江青(毛沢東の妻)は、9月に張春橋姚文元王洪文と「四人組」を結成し、清華大学北京大学などで「批林批孔運動」を展開した。この時ガンのため入院中であった周に代わり、毛沢東は鄧を第一副総理に就任させると提議したが、不満だった四人組は鄧小平を攻撃した。1975年1月、第4期全人代が開催され、病状の悪化した周総理に代わり鄧副総理が日常の業務を担当することになった。10月、周の主張を継承した鄧は、科学技術の重要性を強調して「生産発展の基礎の上にこそ大衆の生活は向上する」と主張し、これが文革批判とみなされる。毛沢東は脱文革を図る鄧小平を危険視し、大部分の活動を停止した。そのなか、1976年1月8日周恩来が死去した。4月4日の清明節には天安門広場に数十万の民衆が集まって、周恩来の死を悼み花輪を掲げた。その中には「四人組」批判のスローガンもあり、中央政府はこれを「反革命事件」と断定、花輪を撤去し集会を禁止した。激怒した民衆は警官や民兵と衝突し、多数の負傷者を出した(第一次天安門事件)。この事件は鄧小平の陰謀とされた為に、4月7日鄧は全職務を解かれた。9月9日毛沢東が死去すると、四人組は奪権を試みるも10月6日に逮捕された。失われた10年、未曽有の混乱期といわれた文革は事実用終結した。 

 台湾では、1976年4月5日に蔣介石が死去した。長男の経国は1978年5月に総統に就任し、「十大建設計画でインフラを充実させ、南北高速道路、桃園国際空港を建設するなどした。経済成長率も60年代以降8%台以上の高水準で推移し、経済は急成長する。中華民国は「著しい外交孤立にもかかわらず、一つの政治経済実態としての『台湾』が一種独自の国際的地位を保持し続ける」状況下であったことが、経済の急成長を可能にした。台湾は、日本と正式な外交関係は絶ったが、1972年12月には大使館級の「交流会館」「亜東関係協会」が成立するなど、断交した諸国と多面的な実質関係の構築を強化し、政府だけでなく民間団体も参与する「総体外交」を推進していったのである。アメリカとは1974年4月に採択された「台湾関係法」により、台湾はアメリカの強い保護のもとに入り、安全保障上の安定を得るとともに、経済と社会建設に専念する環境が整ったのである。