ハートノエムノブログ

放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  10.日本の高度成長と東アジア

10.日本の高度経済成長と東アジア

 戦後日本は国際社会に復帰し、アメリカの保護の下で高度経済成長の波に乗っていきます。敵国であったアメリカが同盟国へと一転し、日本にはアメリカ文化が氾濫する一方、冷戦構造が日本の政治構造にも影響を及ぼし55年体制が確立します。一方、中華人民共和国とは国交がないまま民間交流、民間貿易が活発化しますが台湾問題が発生し中国では文化大革命が起きます。中国、台湾の情勢が日本に与えた影響を考察します。

 戦後は日本政府の「産めよ、増やせよ」政策にのり、出産ブームを迎え団塊の世代が出現した。人口は急増し、義務教育は戦前の6年から9年制になり、学歴偏重、詰込み型受験勉強重視の競争社会が到来する。この競争社会は、個人から社会、地方へと波及しやがて国際競争力を競うまでになる。日本のGNPは1955年から73年まで、毎年実質10%上昇し、68年には米国に次ぐ世界第2の経済大国となる。60年に池田隼人内閣が策定した「国民所得倍増計画」が有効に働き、日本では「国民総中産階級」意識が普及した。

 日本はアメリカによって「共産主義の防御壁」としての役割を与えられ、1954年3月アメリカとMSA協定(日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定)を締結した。これにより、米軍は日本に配置されることになりまた同時に、日本には防衛目的でのみ再軍備が認められ、防衛庁が設置され自衛隊法が制定された。このアメリカとの安全保障同盟締結に反対だった日本社会党は「護憲・革新・反安保」をスローガンに再統一する。これに危機を覚えた財界は、自由党日本民主党に働きかけ、自由民主党が結成された。その後自民党政権は、1993年に日本新党細川護熙内閣が成立するまで約40年続くこととなり、その間常に野党第一党社会党が務めるいわゆる「55年体制」が日本政治の常態となった。1958年から岸信介内閣は安保条約の交渉改定に入ったが、社会党は労働者・学生などを巻き込んで反対運動を起こす。政府は強行採決により60年1月新安保条約と地位協定に調印したため、その後日本全国で安保反対闘争が繰り広げられた。これに強く反応したのが中国共産党である。1960年までに日本には「毛沢東研究会」が成立し、若者の間には毛沢東思想が浸透していた。共産党安保闘争を「日本革命」と規定し、中国の「抗米援朝闘争」に連動させることで、反米闘争のアジアへの拡大に期待した。1960年5月、北京の天安門広場に100万人以上が集結し、「日本人民の日米軍事同盟反対闘争支援集会」を開催し、日本の安保闘争を全面的に支援すると表明した。その後支援集会は中国国内の33都市、1,200万人以上に拡大していった。『人民日報』紙上には1958年から60年までに約900もの安保闘争関連記事が掲載されており、いかに中国共産党が日本の安保闘争に期待していたかが窺える。 

 日本はアメリカ追従の外交路線を選択しなければならず、台湾へ移転した中華民国と戦後処理を行ったため、中華人民共和国とは国交がない中で、人的交流と民間貿易の再開への道を模索していった。1949年5月に「中日貿易促進会」が発足したのを始めに、「中日貿易促進議員連盟」「日中貿易連盟」「日本中国友好協会」と4団体が発足した。議員連盟超党派の国会議員の組織であったが、特に国交回復に重要な役割を果たした。国交正常化後は「日中友好議員連盟」となった。しかしこれら団体へのGHQの弾圧は、1952年の日華平和条約締結後に厳しくなり、『人民日報』等を輸入していた友好協会からは逮捕者まで出した。

 1950年12月、GHQは吉田内閣に対し対中輸出全面禁止を指令した。また、51年5月には国連により、中国向け禁輸勧告が決議された、政府間の日中国交回復への道は厳しい状況であった。そのような状況の中、1952年5月、モスクワ会議に参加した親中派衆議院議員3名が北京を訪問し、第一次日中民間貿易協定の締結にこぎ着けた。貿易協定は、第4次まで順調に進むが、「長崎国旗事件(長崎で開かれた日中友好協会主催の中国切手展で,一青年が中国国旗を引きずり下ろした事件。)」により、中国政府は貿易関係打ち切りを通告し、実質的に日中貿易は中断した。しかし、中国との貿易は日本企業にとって極めて魅力的であった。商社7社と水産大手4社が「中国蝦輸入促進協議会」を結成し、政府に働きかける。55年4月には第1次日中漁業協定が調印され、56年4月から冷凍加工輸入が可能となったのである。このように日中間の交流は、日本においては完全に民間主導で行われたが、中国側は政府主体であった。周恩来は「政治三原則」「政経不可分」などの方針を堅持し、日中国交正常化のための基本的原則となっていく。

 国交正常化までの日中間の対立点は台湾問題に集約される。人民共和国側は、台湾が中国固有の領土であること、国連への復帰、「日華平和条約」の無効性を主張したのに対し、日本政府は「台湾帰属未決定論」などを主張して、実質的には2つの中国を作りだそうとした。社会党公明党など野党は中国の主張を受け入れ、国交正常化の実現に向けて精力的に動くこととなる。

 中華人民共和国は成立当初は、社会主義ではなく新民主主義による国家建設を行った。臨時憲法である「共同綱領」の第1条には「中華人民共和国は新民主主義の国家であって、労働者階級が領導し、労農同盟を基礎とし、民主的階級と国内の各民族を結集団結させた人民民主独裁を実行」とあり、共産党の領導は「序言」にも本文にも謳われていないのである。共産党の指導者たちは社会主義への移行には15年から20年の一定の時間がかかるという認識であった。1947年10月「土地法大綱」を公布し、地主の土地を農民に均しく再配分する土地改革を開始し、52年までに全国で土地改革を完了した。また、土地改革完遂のため農村における階級区分制度を決定した。そこでは農村人口は地主、富農、中農、貧農、雇農に分けられこの時の階級区分が文化大革命時の「紅五類(革命幹部・革命軍人・革命烈士・労働者・農民)・黒五類(地主・富農・反革命分子・破壊分子・右派)」の出身血統主義に通じ、迫害へと繋がっていく。

  中国共産党にとって、台湾の「解放」は国家統一における最大の問題であり、51年春に台湾を攻略し国家統一を完成させる計画であった。しかし、朝鮮戦争アメリカの台湾介入を招き、台湾攻略を阻んだ。その後中国は新民主主義体制を捨て、計画よりも早く社会主義の道を選択せざるを得なくなるのである。

 1953年、中央政治局会議で共産党は明確に社会主義建設を打ち出した。ここから、経済国有制の計画経済(第1次5ヵ年計画)が開始され、工商業の国有化、手工業・農業の集団化、共産党一党による指導体制の確立が加速していく。最高権力機関は実質的には共産党の全国大会になったが、共産党は民主諸党派を自らの領導下に組み入れる形をとったため、形式的には全国人民代表大会と各段階の人民代表大会と謳われることとなった。民主諸党派は野党ではなく参政党と位置付けられる「擬似政党」化していく。

 同じ社会主義マルクスレーニン主義)を掲げて共産国家建設を目指していたソ連と中国は中ソ友好同盟相互援助条約(1950年締結、1979年消滅)で結ばれた同盟国であったが、1950年代後半から革命観の違い、戦略論の違い、国際政治上の意見の対立などが目立ち始めた。きっかけは1956年のソ連スターリン批判であり、平和共存路線をとるようになったことであった。毛沢東スターリン路線の継承する立場からフルシチョフソ連共産党の転身を修正主義であるとし、また平和共存路線は帝国主義への屈服であるとして受け入れないと姿勢をとったのである。56年4月、毛は脱ソ連社会主義の新たな発展モデルを模索し、知識人達向けに「百花斉放・百家争鳴」を呼びかけたが、共産党の「党天下」に対する激しい不満や批判、民主化要求が噴出した。これに対し劉少奇は、個人崇拝を否定し集団指導体制を確立する必要性を説いたが、毛は57年2月には「継続革命論」を提起し、6月には『人民日報』に社説を掲載させ共産党批判を行った知識人に対する攻撃を開始した。このいわゆる反右派闘争は55万人の右派分子を生み出し、彼らは殺害、投獄、失脚等の迫害を受けた。11月に発動された「大躍進」運動では「生産戦線上での一つの躍進」が目指された。ソ連型の社会主義建設ではなく、中国独自の方法として工業では西洋技術と「土法」(伝統技術)を併用することとされた。農民が鉄鋼生産にかり出され、農村にはにわか造りの「土法高炉」が作られ、農機具・鍋・釜までが溶かされる有様であった。農業では集団化を進めた人民公社を建設することが掲げられた。人民公社は行政機能と生産活動を一体化させる制度であり、集団労働においては労働点数制が導入され、賃金は一律、農民は自留地を失い、副業は禁止のため現金収入はなく、農機具などは全て公用となった。その結果、食糧生産は1951年の水準まで落ち込み深刻な食糧危機をもたらし、約2,500万人もの餓死者を出した。大躍進運動人民公社運動は毛沢東の決定的失策となり、権威失墜の大きな原因となったのである。

 1958年11月、共産党人民公社の行き過ぎの是正を決定し、毛沢東は次期の国家主席の候補者を辞退すると表明、この提案がただちに採択される。59年4月、劉少奇が新たに国家主席に選出された。この時期は、国際環境も厳しくなっており、台湾では58年8月にアメリカが台湾海峡に第七艦隊を出動させていたが、事前に知らされなかったフルシチョフは強い不信感を抱き、中ソ論争も激化していった。また、チベットについてはインドとの間で8月には中印国境紛争が発生した。ソ連は59年、核兵器開発への協力を中止、さらに中ソ技術協定を破棄し技術者の引揚げを通告、対立は決定的となったため、中国は外交戦略の見直しと、自力更生による経済建設の必要に迫られた。共産党は調整政策に転換し、1960年7月「八字方針」を提起し経済調整政策が開始された。

 この調整期は、毛沢東にとって最も屈辱的な時期であったが、失地回復をねらい、劉少奇・鄧小平らの追い落としにかかる。1960年9月、林彪国防部長により軍部内で「毛沢東思想学習運動」を開始され、毛の権威復権が図られていく。1966年8月「プロレタリア文化大革命の決定」が採択された。これは毛沢東の文芸工作への介入から始まったものであるが、この運動に影響を与えたのは、毛の三番目の妻であった江青だった。江青は劉夫人だった王光美のファーストレディたる活躍ぶりに嫉妬していた。毛の意図が読めなかった劉少奇はこの時点では純粋な文芸批判運動とみていた。その後劉は党内序列を2位から8位に格下げされ、さらに10月には鄧小平とともに「自己批判書」の提出を余儀なくされ、事実上の軟禁状態となった。こうして劉少奇は実権派、送資派の中心人物とされ、厳しい批判の矢面に立たされることとなった。67年4月1日には『人民日報』は劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」とレッテルをはり、9月には北京の要人居住区から追放され、家族とも引き離され、10月には「帝国主義の手先、現代修正主義、国民党反動派の手先」として党からの「永久除名」が決定された(鄧小平は除名ではなく、留党監察とされた)。その後も紅衛兵らによる壮絶な個人攻撃が続き、劉少奇は投獄され69年肺炎のため死去した。文革はここで一つの区切りを迎える。



迫害を受け続ける家族。思春期をむかえた著者は、10代の若者が遭遇する悩みや楽しみをひとつも経験することなく急速に「おとな」になった。労働キャンプに送られる両親。著者にも、下放される日がついに訪れた。文化大革命の残虐な真実をすべて目撃しながら生き、「野生の白鳥」は羽ばたく日を夢見続ける。

 1969年9月、共産党の9全大会において毛沢東が中央委員会主席に、林彪が副主席に就任し、この後文革は後期の段階に入る。林彪毛沢東の神格化に努めることで自らがナンバー2たらんとアピールしたが、江青グループとの奪権闘争は激化した。1971年3月、林は上海でクーデターを計画するが、9月に毛の暗殺を決定、列車爆破を計画するも計画が事前に露呈しクーデターは失敗する。林は亡命のために乗った飛行機が墜落し死亡した。その後は周恩来がナンバー2として活躍し、周により米中接近、日中国交正常化が果たされていくのである。

 台湾においては、1950年7月の中国国民党の「改造」の過程で、蔣介石が全権委任を獲得し絶対的な独裁権力を得た。冷戦構造の中で台湾の役割や地位が向上していたことが、それを可能にした。1947年におきた二・二八事件(たばこを闇販売していた女性との間で生じたトラブルに際し、警察が発砲したため台北市民が大規模デモを起こした。陳儀は戒厳令を出したが、デモは台湾全土に拡大し多数の住民が殺害、投獄された)から「省籍矛盾」問題が発生し、政治運営に支障をきたしていた。国民党は「本省人」封じ込めの政策をとり、49年5月には全土に戒厳令を布いた。この戒厳令は87年7月までの38年間に及び、「党禁」「報禁」と並び国民党独裁の象徴的政策となる。対外政策においては、51年2月アメリカとの間で「相互防衛協定」を締結し、軍事援助については74年の打ち切りまでに総額25億6,600万ドル、一般経済援助は65年までに約15億ドルの供給を受けた。蔣介石は外交戦略の理想型を台湾で実現することに成功した。アメリカの援助は農業と工業の増産計画を可能にし、国際的には「経済奇跡」といわれる経済発展を実現していくのである。

 大韓民国においては、李承晩大統領が憲法改正を強行し四選され、1960年4月まで大統領であった。李承晩は国際社会に対し「対日戦勝国」として戦争賠償金を認めるように働きかけたが、承認を得られなかったため、51年に日本と平和条約を結ばなかった。これに不満をもった李承晩は52年1月「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を発表し、周辺国との水域区分と海洋境界線を一方的に決めた。いわゆる「李承晩ライン」と呼ばれる境界線には竹島が含まれ、54年からは不法占拠したため、日韓で領土問題となっている。李承晩は権威主義体制により経済復興を試みるも失敗し、60年4月、学生デモが頻発したことで辞任を表明するとハワイに亡命した。その後は日本の陸軍士官学校出身の軍人であった朴正煕が、クーデターにより5月に軍事政権を発足させた。63年には軍を退役し大統領選で当選した。65年6月朴正煕政権は池田隼人内閣との間で「日韓基本条約」に調印・批准した。当時の韓国の国家予算の2年分以上もの資金供与(または借款)を提供し、経済協力することで日韓の国交を正常化する。この時同時に結ばれた「日韓請求権協定」には朝鮮人個人に対する補償金も含まれていたが、2018年には元徴用工の賠償請求裁判において、韓国大法院判決が、日本企業に対し損害賠償の支払等を命じる判決を確定させるなどし、外交問題となった。日本政府は「完全かつ最終的に解決された」との見解を崩していない。これら日本からの経済援助や円借款、技術供与のODAの実行と、64年のベトナム戦争の派兵による米ドルの巨額流入は「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長をもたらした。朴は李同様、憲法改正により三選されたが79年、民主化要求デモが活発化し側近の金戴圭中央情報部部長によって射殺された。