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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  9.東アジアの分断化-中国の内戦と朝鮮戦争

9.東アジアの分断化-中国の内戦と朝鮮戦争

 戦後の中国の内戦と朝鮮戦争は、東アジアを分断化することで、冷戦下の新秩序を形成していきます。その過程はどのようなものであったか、冷戦という対立構造におけるサンフランシスコ平和条約日華平和条約締結についても考察します。

 

 抗日戦争に勝利した中国国内は、国民政府支配区、中国共産党の革命根拠地、親日政権支配区、日本の占領区に分かれており複合国家の様相を呈していた。中国共産党は、「民主」を旗印に知識人・中間層、無党派層を巧みに取り込んでいき、国民党と蔣介石を「人民の公敵」に仕立てることに成功する。1945年4月、共産党7全大会に先立って毛沢東は、「若干の歴史問題に関する決議」を採択し、共産党こそが建党以来45年まで一貫して抗日戦争勝利に導いたことと、その指導者としての毛沢東の役割が明記されたのである。

 45年8月末、国民党の蒋介石の呼びかけに応え、毛沢東をはじめとする共産党代表団が国民政府の臨時首都・重慶を訪れ、いわゆる「重慶会談」が始まった。9月4日から両党による実質的な協議に入ったが、そこで焦点となったのが、共産党の軍隊と支配地域(解放区)をいかに国民政府に統合するかという問題だった。
 国民党は、当時100万以上あった共産軍の兵力を、国民党軍の兵力の7分の1にまで削減・再編するよう要求。また共産党の解放区政権の維持についても拒否し、協議は難航した。1カ月以上に及ぶ会談の結果、10月10日、平和的な建国、政治協商会議の開催、軍隊の国家化など12項目に関する双方の見解を示した「政府と中共代表の会談要録」(通称、「双十協定」)が結ばれた。しかし、翌46年1月に開かれた政治協商会議においても、最も肝心な共産軍および解放区の問題は解決されず、国共間の衝突は収まらなかった。国共米の3人委員会(張郡、周恩来、マーシャル)が発足し、停戦が協議されたが、華北親日政権区や東北部では日本軍の武器や戦略物資の接収で国共は激しい攻防戦を展開していた。アメリカも海兵隊員5万人を華北に派遣し、北京・天津を占領し炭鉱・鉄道を接収していた。ソ連は東北部に進駐し、日本軍の解除と武器等の接収を行っていた。このように米ソは戦後間もない中国に介入することで、東アジアの勢力図の再構築に余念がなかった。この状況下、中国共産党は1946年5月、土地革命と農民動員に乗り出し、6月には蒋介石が中原解放区への侵攻を命令すると、中国は全面的な内戦に突入するのである。

 蔣介石は戦後の国際関係構築において、軍閥なき後の日本との平等互恵の関係樹立と、東アジアにおけるアメリカを軸とする「反共・民主」の国際関係構築を目指していた。よって終戦時のいわゆる「以徳報怨」の演説を、自らの政治生命をかけて日本に向けてアピールしたのである。蔣は「対日言論」の日本語版を、日本へ帰還する居民たちに持たせて、自ら用意した軍艦で日本へ帰還させた。本書は「唯だ日本軍閥を敵とし、日本国民を敵としていない」こと、「日本の民衆が正義の力を発揮して侵略政策を打倒し、以て東亜の平和を恢復せんことを望む」こと、「中国は・・・三民主義がある」ことが強調されており、帰還事業を遂行した蔣の温情に感動した一部の日本人の中には、蒋介石に対する尊敬と感謝を抱いた人もいた。日本各地には蔣の遺徳を称える碑等が現存している。

 朝鮮半島においては、1945年12月、モスクワで米英ソ外相会談により最長5年間の信託統治が決まった。これに対し南朝鮮の金九は反対、李承晩は信託統治には反対しつつも米軍政府とは協力維持、ソ連指導下の北は支持した。戦時中から金九を長年保護し独立承認運動を支持してきた蔣介石にとって、金九らの臨時政府が独立し朝鮮半島支配が確立することで、朝鮮に対する中国の影響力は大きくなるはずであった。

 1946年2月、金日成が中心となり北朝鮮臨時人民委員会が結成された。金日成は戦時中ソ連で抗日運動をしていたが、解放後ソ連軍と共に北朝鮮に帰国していた。李承晩は戦時中ハワイを拠点として独立承認運動を展開していたが、45年10月に米軍支配下南朝鮮に帰国していた。一方金九は、アメリカの抵抗にあい臨時政府としての凱旋ができずに個人名での帰国を余儀なくされた。1945年11月、重慶で蔣介石出席の下、臨時政府の壮行会が盛大に行われた。蔣の影響を強く受けている金九は、南北統一を主張し南朝鮮ンの単独選挙に反対したため、李承晩と対立するようになる。1948年8月、南朝鮮で単独選挙が実施され、李承晩が初代大統領に選出されて、15日に大韓民国が樹立された。金九は李承晩の政敵となり49年6月に暗殺される。蔣の朝鮮独立の支援は水泡に帰す。48年9月、朝鮮民主主義人民共和国金日成指導下に成立すると、38度線を境界とする分断化が決定するのである。

 中国では内戦勃発後、国民党が11月南京で初めての国民大会を開催するも、出席代表者の85%が国民党員で共産党民主党派の参加がないという名ばかりの国民大会であり、採択された「中華民国憲法草案」も民主憲法とは言えない内容であった。一方共産党中国民主同盟などの勢力を吸収し、「民主」連合のリーダー的存在となることに成功していた。1947年2月毛沢東は、八路軍・新四軍を人民解放軍と改称し、その後の国民党との内戦での都市及び地域の占領を「解放」という言葉で表現した。「民主」と「解放」という言葉が内戦期には氾濫し、その対立概念となった国民党は人民の支持を急速に失っていくのである。9月になると解放軍は「打倒蔣介石、解放全中国」をスローガンに総攻撃を開始する一方、社会主義的土地改革を断行し人口の圧倒的多数である農民の糾合に成功していく。

 この中国情勢に危機を感じたアメリカは1947年、国民政府に対し「政治経済改革」の断行を提言し、総額7億2,000万ドルもの援助を実行した。しかし、抗日戦争期の財政的疲弊と内戦の負担が国民政府に重圧となり、都市を中心に物価が急騰したため民衆の生活を圧迫した。また、蔣介石が民衆、特に国民党員に対し強要した自己犠牲と資金援助は国民党員の脱会と共産党への移籍を招き、国民党は支持を失っていった。

 国民政府は日本軍の華北介入が濃厚になっていった1931年から、故宮博物館の宝物の疎開を計画し33年より開始していた。蔣介石は、1948年に上海から台北への移送を決定し49年半ばまでにほとんどの移送が完了する。故宮の宝物を中国の政党政府としての「一つのシンボル」にする目的があったとみられ、この時期から蔣介石は台湾への移転を計画していたのが窺える。



戦争と政治に引き裂かれ、「北京」と「台北」に分かれた、ふたつの故宮。同じ名をもつ東洋の二大博物館が、相容れない仲となって約半世紀が経つ。数々の歴史的秘話や、初の「日本展」へ向けどのような水面下の動きがあったかを明らかにしながら、激動を始めた両故宮に迫る最新レポート。

 1948年、解放軍が地方都市を次々と占領していく中、国民政府は戒厳令を公布し、非常事態宣言を宣言するとともに、蔣は中華民国総統に選出され中華民国政府と名称を変えた。解放軍の勢いに追い詰められた蔣は、トルーマン大統領に軍事援助を要請するも、拒絶されると共産党に和平交渉を申し入れた。それに対し毛沢東は「声明」をだし、国民政府の正当性を真っ向から否定する。この声明から8日目、蔣介石は突然下野を表明した。解放軍の占領は進行し続け、9月には毛沢東中華人民共和国中央人民政府委員会主席に選出し、首都を北京と改称した。10月には天安門において、中華人民共和国の成立を宣言し、ソ連は承認、アメリカは不承認を発表するに至った。11月になると、南京から広州、重慶成都へと中華民国政府は移転を余儀なくされる。そしてついに12月8日、台北への遷都を決定し蔣介石と経国父子は台北へ軍用機で飛んだ。機内で蔣介石父子と側近は国家を歌い、「大陸反攻」を誓ったといわれる。しかし、二人が大陸に戻ることは生涯なかったのである。

 1950年、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮人民共和国成立後、国家統一を目標にしていた金日成は、1月にソ連スターリンから「対南侵攻」の許可を得、5月には毛沢東の同意も得た。6月25日、突然北朝鮮軍は38度線を越えて武力侵攻を開始し、3日でソウルを占領した。事態を受けてアメリカは、国際連合安全保障理事会に提訴し「韓国国連軍(16ヵ国参加)」の結成が決定した。中国では7月、52万に上る国共防衛軍を編成し、東北国境の防衛を強化した。10月には、スターリンによる北朝鮮軍の救援要請に応じ、志願兵40万が鴨緑江を超え米軍との戦闘が開始した。中国ではこれを「抗米援朝戦争」と位置づけ、対米対決姿勢は鮮明化する。アメリカと中国は完全に断行状態となった。また、朝鮮戦争後、台湾海峡アメリカ第七艦隊が停泊したため、共産党の祖国統一は阻まれた。さらに、韓国・日本・台湾の反共包囲網ができ、米軍基地が恒久化するなど、冷戦構造が先鋭化・固定化する。この情勢下では、中国は自らを社会主義陣営の一員として明確に位置付けるしか選択の余地はなく、「向ソ一辺倒」政策を強化する。アメリカとの断交は経済発展を犠牲にしたが、中国は新民主主義体制を捨て、社会主義の道を選択せざるを得なくなるのである。朝鮮戦争は、1953年7月27日38度線にある板門店で休戦協定が成立した。

 日本では戦後GHQにより占領政策がとられたが、サンフランシスコ平和条約が成立するまで、国際連合には加盟できなかった。1946年4月、新選挙法による衆議院総選挙が行われ、日本自由党が第一党となったが、GHQ公職追放令により東条内閣期の議員全員を失格としたため、自由党過半数を得ることができず革新党が躍進した。当時自由党の党首は鳩山一郎だったが、GHQは鳩山に公職追放令を出し、前外相だった吉田茂を強力に首相に推した。吉田によりアメリカの支持の下、日本の戦後復興と国際社会への復興は果たされていく。

 冷戦による国際情勢の変化は、アメリカの占領政策を変化させた。日本の経済発展と民主化アメリカの国益に適うと考えたアメリカは、47年8月から制限付きながら民間貿易を許可し、日本は再び国際経済活動に参入する機会を得る。48年、日本は「共産主義に対する防御壁である」とされ、軍事的・経済的・政治的地位の重要性が強調された。ここからアメリカの占領政策は大きく転換し、日本を友好国に育成するため、経済復興の迅速化が図られた。ドッジによる経済安定9原則は、緊縮経済によるインフレ抑制、1ドル=360円という単一為替相場の設定と輸出拡大により、日本の経済復興と自立を目的としていた。

 朝鮮戦争がはじまると、日本には戦争特需景気が起きた。国連軍が日本を基地として出兵し、その物資の調達をドルで支払ったためであるが、この特需が日本経済の早期回復を可能にしたのである。また、1950年マッカーサーの指令を受け、自衛隊の前身となる警察予備隊の創設と海上保安庁の拡充のため、自衛隊の前身となる警察予備隊令を公布する。マッカーサー日本共産党の機関紙『アカハタ』を発行禁止にするなど、レッド・パージを強化するようになった。これを受け吉田内閣も民間・公職のレッド・パージ政策を強化する一方で、公職追放は解除され、警察予備隊に旧軍人が応募することも可能となった。

 冷戦構造下の台湾では、1950年3月蔣介石が総統に復帰し、「大陸反攻」を政治課題に具体的計画を示した。国際的な台湾の地位は複雑であり、1945年の国際連合成立時、中華民国常任理事国入りを果たしていたものの、49年の分断化により正当化問題が提起される。1950年、アメリカのトルーマン中華民国への援助は表明したが台湾問題へは不介入を強調、イギリスは中華人民共和国を承認する協議に入ったため、中華民国はイギリスと断交した。カイロ会談以前から蔣介石とチャーチルの間には香港をめぐって確執があったが、毛沢東は内戦を有利に戦うため英ソとの関係を優先し、香港問題を「副次的」問題としていた。

 朝鮮戦争期にアメリカの台湾政策はやはり変化した。戦争勃発後の1950年6月、台湾への不介入を破棄したトルーマン大統領は、米海軍第七艦隊を台湾海峡に送り込んだ。これを受け蔣介石は韓国に陸軍精鋭部隊を派遣し、台湾はアメリカの重要な同盟国としての役割を担うようになるのである。米中対立はますます激化していく。

 サンフランシスコ講和条約は、このような状況下1951年9月に開催された。中国に関していえば、対立を避けるため2ヵ国とも招聘しないことが決定された。このアメリカの決定に対し、中華人民共和国の外交部長であった周恩来は、中華人民共和国が参加しない講和会議は、合法性が認められず無効であると述べ、自らの正当性を主張した。イギリスのアトリー首相は、台湾が中国に帰属するという前提で、中華民国を中立化したうえで中華人民共和国を講和会議に参加させることを、トルーマン大統領に提案したが反対された。その後もイギリスは、講和会議には中華人民共和国を中国の代表として参加させるべきと、ソ連と共に主張した。アメリカのダレス対日講和問題顧問は、中華民国を除く若干の国家が日本と多数国間条約を結び、そのあとどちらの中国を選ぶかは日本の自主的な選択に任せ、別途二国間条約を結ぶという代替案を提起し、イギリスはこれに同意した。1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約が調印され、日本は48ヵ国間での条約締結に至った。対日参戦をした55ヵ国中、不参加の中国・インド・ビルマ(ミャンマー)・ユーゴスラビアを除く51ヵ国が参加し、内ソ連ポーランドチェコの3ヵ国は調印を拒否した。アメリカとの間には日米安全保障条約が締結された。占領は終了したもののアメリカ軍の駐留が決定したため、アメリカの影響力は継続することとなる。

 サンフランシスコ講和会議終了後も、日本政府には中国との平和条約締結という大きな課題が残されていた。どちらの政府と戦後処理を行うかは、原則上は日本の裁量に任されていた。1951年、吉田首相は国会答弁の中で「日本は現在依然として講和の相手を選択する権利を持っている。この権利を行使するにあたっては、客観的環境と中国の情勢を考慮すべきで、中国と日本の関係は軽々しく決定すべきではない」と述べている。吉田は中国の持つ市場の潜在性を重視していたのである。この吉田の発言を「自由世界に対する挑発である」と危機感をつのらせた蔣介石は、アメリカ側に事態打開を要請し、アメリカはダレスを特使として日本に派遣した。ダレスは吉田に対して「中華民国政府は中国の合法政府であり、台湾は極東の軍事戦略上、極めて重要である。日本政府と中華民国政府が講和をすすめれば、それは日本の利益になるだろう」と述べた。吉田はアメリカの意向に沿わざるを得なかった。市場経済の規模からも中華人民共和国との政治的平和と通商関係の樹立が、日本政府にとって望ましいと吉田は考えていたが、共産主義の防御壁としての役割を期待されていたためである。

 1952年4月日華平和条約が調印される。第1条は「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する」とあるが、この文言が1972年9月の日中国交正常化交渉で問題となる。また、この条約は「戦争賠償」の文字を一つも含まない前例のない講和条約となった。これは蔣介石の「戦争責任二分論」「以徳報怨」政策の帰結であり、その後日本と台湾は経済的にも政治的にも密接な関係を築いていくことになるのである。