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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  8.東アジアの戦後処理

8.東アジアの戦後処理

 日本がポツダム宣言を受諾するまでの過程の概説と、中国の戦後構想とその実現のためにとった外交戦略はどのように展開されたのか。戦後の朝鮮、台湾・澎湖諸島についても考察します。

 

 1940年7月26日、第二次近衛文麿内閣において「大東亜新秩序」が提起された。時の外相であった松岡洋三の発言から「大東亜共栄圏」とも別称されるこの国策は、終戦の45年まで続いた。1941年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃した同日にマレー半島のコタバルに上陸し、シンガポールを目指して南下、翌1月2日に占領した。また、1941年12月25日には香港、10日にはグァム島を、翌年1月にはマニラを占領しその後フィリピン全土を占領した。当時フィリピンは1916年からアメリカの自治区であり、35年には10年後の完全独立を約束されており、ダグラス・マッカーサーアメリカ極東陸軍司令官として駐屯していた。この時米軍兵士7万6千人が捕虜となり、「アメリカ戦史上最大の降伏」と言われた。このフィリピン陥落がアメリカの世論に与えた影響は大きく、42年3月21日、アメリカ議会は大統領の日系人強制収容命令を承認し、11万人以上の日系人が財産を没収されアリゾナなどの収容所に強制収監された。この措置はカナダ、南米諸国、ハワイなどでも見られた。

アメリカに生まれ、アメリカ人として育てられた日系二世たち。しかし日米開戦は彼らに残酷極まりない問いを突きつけた。日本人として生きるのか、アメリカ人として生きるべきか?ロサンゼルスの邦字新聞『加州新報』の記者天羽賢治とその家族の運命を通し、戦争の嵐によって身を二つに切り裂かれながらも、愛と祖国を探し求めた日系人たちの悲劇を浮き彫りにする感動の大河巨編!

 日本は1942年5月までに、マレー半島、オランダ領東インド諸島、ビルマ、フィリピン、ニューギニア東北部を占領する。6月5日、アメリカ軍の大攻勢によりミッドウェー海戦で大敗した日本は、ソロモン諸島ガダルカナル島の攻防戦で2万1千人のへいを失うと43年2月に撤退し以後守勢にまわることとなる。一方で8月にはビルマをイギリスから、10月にはフィリピンを独立させるなど、「大東亜共栄圏」構想を実現させようとした。

 1944年3月、連合軍の反攻の中心地であるインド・マニプル州の州都インパールを攻略する作戦、「インパール作戦」が実行され、いわゆる「援蔣ルート」の遮断が図られた。当初から無謀な計画だとの反対意見があったにもかかわらず、盧溝橋事件時でも司令官であった牟田口廉也第十五軍司令官により強引に進められた。蔣介石は雲南で陳誠を司令官とする部隊を編成し、ビルマへの侵攻を計画した。また、英米の連合軍もビルマ奪回に向かう。戦力不足と計画の遅れから7月4日、大本営インパール作戦の中止を命じ、連合軍はサイパン島に上陸、ほとんどの日本兵は戦死した。以後アメリカはサイパン・グアム及び中国成都などを基地として日本の「市街地爆撃」を行うようになる。また、フィリピン奪回をめざし台湾の新竹、屏東、高雄港などの軍事基地も爆撃した。10月20日アメリカ軍はレイテ島に上陸を開始した。

 戦時下の中国においては、国民党と共産党の合作が模索されていた。蔣介石は1943年3月に戦後の国家建設構想である『中国の命運』を提起したが、共産党と合作し民主的連合政府を建設することは、理論上も組織上も簡単ではなかった。一方、毛沢東は1940年1月に「新民主主義論」を発表し、「民主」の旗揚げに成功すると、太平洋戦争勃発後直ちに「中国共産党の太平洋戦争に対する宣言」を出した。日本帝国主義打倒のために、「民主政治を実行し、中国の全各党各派及び無党派の人士」をも含む強固な国民党・共産党とその他の党との合作が必要だと主張し、この主張に国民党の一党独裁に批判的だった知識人(第三勢力の人士)たちは糾合されることとなる。また、毛沢東は1943年10月から小作料の引き下げ運動である「減租」運動を開始し、人口の8割を占める農民の取り込みを図ったり、「整風運動」で共産党幹部の教育と生産活動を行うことで清廉な印象を国内外に与えることに成功し、アメリカの中国共産党評価も上がっていくこととなる。

 国民政府は、蔣介石とチャーチルの対立があり、次第に連合国の中での評価を下げていく。1944年には共産党によるネガティブキャンペーンにより、「独裁者」「ファシスト党」とのレッテルに悩まされた。それは中国国内だけにとどまらず、アメリカ・イギリス等の海外でも展開された。

 日本国内においては、戦時中、あらゆる生活物資において極端な物資不足に陥る。1937年の個人消費支出を100とすると、44年には60.9%にまで落ち込んだ。配給制が拡大し、町内会や隣組の監視が強化され、人々は出征する兵士の壮行や戦死者の公葬などに駆り出された。召集令状で戦場に送られる兵士は年々増加し、学徒出陣にまで及び年齢層も年々拡大されていった。銃後を守る女子は勤労奉仕や女子挺身隊として工場で働かされ、青年男子が入隊した農村では、働き手を失ったため生産性が落ち、そのことが食糧不足に拍車をかけた。食糧の供給減であった満洲の開拓村でも戦争末期には召集令状により、日本国内同様働き手を失ったため食糧生産ができなくなっていった。負の連鎖は日本とその関連地域で同様に見られたのである。

 アメリカ軍のB29による市街地爆撃は、1944年6月15日の北九州の八幡製鉄所への爆撃から激しさを増していった。当初は航空機工場など軍事目標への爆撃が中心だったのが、1945年になると住宅地を焼夷弾で焼き払う事実上の無差別爆撃に米軍は方針を変えたのだ。アメリカ軍の空襲により、40万人もの市民が犠牲となり、66の都市が焼き払われた。

 1945年1月、アメリカ軍はフィリピンのルソン島、2月硫黄島に上陸すると4月には沖縄本島に上陸した。アメリカ軍は1,500隻の艦船で包囲し、約54万人の兵力を投入したのに対し、日本側は現地召集の防衛隊と学徒隊(ひめゆり部隊含む)10万人であった。3か月に及ぶ沖縄での陸上戦で日本側は約20万人の犠牲者を出し、7月2日アメリカ軍は沖縄作戦終了を宣言し全島を制圧した。

 2月の硫黄島上陸作戦の直前に、対日参戦と引き換えに、満洲の日本権益と南樺太、千島列島をソ連に与えることを米英両国が約束した、いわゆるヤルタ協定が結ばれたいたが、これを踏まえてソ連は4月に日ソ中立条約の不延長を日本に通告した。同条約は、不延長通告の1年後に廃棄されることとなっていた。4月に組閣した鈴木貫太郎は、穏健な海軍軍人で、侍従長として昭和天皇に仕えたこともある人物であった。天皇の苦衷を察して首相を引受け、組閣当初から戦争終結を図っていた。しかし、陸海軍が戦争継続を望んだため、終戦工作に着手するのが遅れてしまう。沖縄陥落後の6月末になり、ようやく対ソ外交交渉を軸に終戦工作を始める。6月29日には広田弘毅元首相がヤコフ駐日大使に日ソ関係改善の申し入れを行い、7月13日にはモスクワの佐藤尚武大使が使節派遣をソ連政府に申し入れた。しかし、ヤルタ協定により参戦を決意していたスターリンに、そもそも交渉に応じる気はなく、回答は引き延ばされた。結果的に日本は、成算のない対ソ交渉に過剰な期待を寄せ、貴重な時間を無駄にした。

 1945年4月30日、ヒトラーが自決したため5月8日に無条件降伏したドイツのポツダムチャーチルスターリントルーマン(ルーズヴェルトは病死)が会談し、ポツダム宣言が作成された。その主旨は日本に無条件降伏を勧告するものであり、降伏の条件として、軍国主義勢力の排除、一定期間の占領、カイロ宣言の履行による植民地の返還と領土の制限、軍隊の武装解除戦争犯罪の処罰、民主主義と言論宗教思想の自由、基本的人権の尊重の確立などを要求した。ソ連の回答を待ち続けていた鈴木内閣は、同宣言を「黙殺」した。この日本政府の対応は、アメリカの原爆投下、ソ連の対日参戦の口実を与えることになったのである。

 1945年8月6日に広島へ、9日には長崎へアメリカ軍により原爆が投下された。ソ連は8日に日本に宣戦布告し、9日未明より満洲へと武力進行を始める。ソ連軍との戦闘は終戦の8月15日以降も続き、ソ連軍は日本人のみならず、入植していた中国人や朝鮮人をも虐殺し、日本人残留孤児問題を生み出すこととなる。

 1945年8月9日、日本は御前会議を開き、ポツダム宣言受諾について議論し、14日受諾を連合国側に通達すると、翌15日正午、昭和天皇玉音放送で「終戦詔書」を読み上げ、国民に終戦を伝える。正式な終戦は降伏文書に調印した9月2日となった。

 中国では、ヤルタ密約のソ連参戦の条件が国民政府にも伝えられ、宋子文がモスクワに飛んでソ連と交渉を重ねた。旅順租借問題と外モンゴル問題で難航したが、ソ連の強硬な態度を前に、蔣介石は外モンゴルの独立を認めざるを得ず、8月14日中ソ友好条約の締結に踏み切った。8月15日、蔣介石は「抗戦に勝利し、全国の軍人、民衆及び世界の人々に告げる書」を発した。その中で蔣は、8年間に及ぶ日中戦争の正当性を強調し、中国人民に対して「我々は報復してはならず、ましてや敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはならない」と説いた。そして戦争の責任及び「敵」を「日本の横暴非道な武力を用いる軍閥のみ」に限定し、「一貫して、日本人民を敵とせず」という方針を貫こうとし、中国は今後民主主義国家としての道を「邁進する」と強調したのである。この方針の下、蔣は実際に200万人に上る日本軍捕虜と民間人を中国船で日本に送り返した。一方で香港・チベット問題についてはイギリスの抵抗にあい解決できなかった。蔣とは対照的に毛沢東外モンゴル・新疆問題、香港・チベット問題を棚上げにすることでソ連とイギリスの支持を得て、後の内戦を有利にしていく。

 朝鮮は8月15日、日本からの独立が認められ植民地支配から解放されたが、独立運動の各グループ内でも、ヤルタ密約で信託統治を計画していた連合国の中でも合意が成立していなかったため混とんとした状況であった。9月2日、マッカーサーの命令により、北緯38度線を境界に米ソ両国による軍政が敷かれることとなった。

 ポツダム宣言を受諾し無条件降伏をした日本は、1952年4月28日までの約6年半の間、GHQの間接統治下に入った。マッカーサー最高司令官のもと、軍国主義日本の完全な解体と積極的な民主主義の推進の2つの方針を軸に占領統治は進められる。日本占領政策の最高決定機関はワシントンの極東委員会であり、米英中ソ豪蘭仏印加比新の11ヵ国から構成されたいたが、実際にはアメリカ軍の単独占領であった。日本においては8月17日に皇族の東久邇宮が組閣し、武装解除、降伏文書の調印等の戦後処理にあたった。

 10月9日、戦前の外交専門家であった幣原喜重郎が首相となると、マッカーサーより「五大改革指令」をうけた。この指令に基づき、45年中に政治犯の釈放、治安維持法・治安警察法特高の廃止、選挙法の改正による婦人参政権の実現などを実現した。46年には財閥による市場の独占を廃止し、経済の自由化をはかるなど、日本は急速な民主化を進めていく。その中でも特に問題となったのが、天皇の戦争責任とその地位であったが、1945年9月27日昭和天皇は自らマッカーサーと会談をもち、象徴天皇制の樹立の方向性へと向かう。46年1月1日詔書を発表し、昭和天皇は「人間宣言」を行うのである。

 1946年1月19日、マッカーサー極東軍事裁判所憲章を公布し、裁判所を設置させた。いわゆる「東京裁判」では、A級戦犯(「平和に対する罪」)に問われた戦争最高責任者は28名であり、うち25名が有罪となる。靖国神社参拝問題は、このA級戦犯合祀が関係している。

 幣原内閣の最大の課題は、憲法改正であった。1946年2月に日本側が提出した憲法改正要綱は、明治憲法に近いもので主権在民とは程遠かったため、GHQは自らマッカーサー・ノートを提示し、GHQ民政局に草案作成を指示した。民政局員たちは一週間で起草作業を終え、それをもとに修正作業を経て11月3日「日本国憲法」は公布された。