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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  7.戦争の東アジア②

7.戦争の東アジア②

 アジア太平洋戦争が東アジアの国際関係に与えた影響について考察します。英米と同盟国となった中国・蔣介石は「中華の復興」のために「民族自決」を主張して「カイロ会談」に臨みます。そのカイロ会談やヤルタ密約はどのように決定されたのか、また戦後の東アジア秩序に与えた影響は?

 

 日ソ(日満軍とソ蒙軍)は、1939年、ノモンハンで大規模な武力衝突を起こし、日満軍は大敗を喫し作戦を中止した。またソ連がドイツと「独ソ不可侵条約」を締結したことで、日本のソ連に対する戦略的認識は大きく変化し、1941年「日ソ中立条約」を締結するに至る。蔣介石にとってこのことは予定外の事であり、日ソが満州国外モンゴルを相互承認したことに、激しく憤った。

 日ソ開戦の可能性が消えた国際情勢の中、1940年に調印された「日独伊三国同盟」は、蔣介石にとってまさに「天祐」となった。蔣介石は翌日の日記で「これで、抗戦必勝の形成はすでに定まった!」と記している。その後アメリカは軍隊を増強し太平洋の防衛に備えた。そのことを駐米大使の胡適から電報で知った蔣はルーズヴェルト大統領への密着外交を強化させる。しかし、全権大使の宋子文の電報は、「大部分のアメリカ市民は、中国に同情しているが参戦を望んでいるのは、17%にすぎない」ので、アメリカ「政府は市民の心情を無視して、事を運ぶことはできない」と説明していた。この世論を覆すために、参戦するための大義名分がどうしても必要であった。

 ここに、蔣介石にとって日本の真珠湾攻撃は千載一遇のチャンスとなる。1941年12月8日の日米開戦は、蔣にとって「抗戦4年半以来の最大の(外交)成果であり、また唯一の目的であった」。翌9日蔣は対日独伊宣戦布告を行い、中国が連合国側の一員であり、日中戦争が太平洋戦争の一部であることを強調していく。

 1942年ワシントンで「反侵略共同宣言(連合国共同宣言-Declaration of the United Naition)」が採択された。この宣言は41年にルーズヴェルト大統領とチャーチル首相が行った大西洋会議の「大西洋憲章」を基礎としており、第1次世界大戦時にウィルソン大統領が提起した民族自決主義を実行するものであった。アメリカは本来門戸開放主義を唱え、植民地を持たない主義であったが、イギリスはこの時点で多くの植民地を保有しており、英仏の強い抵抗にあいウィルソンの民族自決主義はヨーロッパに適用を限定された経緯もあった。大西洋憲章チャーチルはその適用をナチスドイツが占領しているヨーロッパ諸国に限定解釈しようとし、ルーズヴェルト大統領と見解を異にしたのである。イギリスにとって独伊との戦いは、あくまでも植民地を守るためであり、このことは後に蔣介石とチャーチルの対立を生むこととなる。

 1941年12月31日、ルーズベルト大統領は蔣介石に南太平洋戦区に中国戦区最高統帥部の設置を提議し、翌42年1月5日には蔣がタイ、ベトナムなどを含む連合国中国戦区最高司令官に就任した。元旦に蔣は「連合国共同宣言」において中心的役割を果たすことを評価され、英米ソと共に「世界四強之一」になったと言及している。すなわち、蔣が推進してきた外交戦略は、第2次世界大戦後中国が「五大陸」としての地位を確立するに至る道筋をつけたのである。

 蔣の外交戦略の目的は単なる「抗日」にあったのではなかった。蔣にとって長年の懸案は、イギリスとロシアとの間の領土問題の解決にあった。ソ連とは外モンゴルの独立問題があり、新疆への侵攻に強い警戒感と不快感を示していた。また、イギリスとはチベット独立問題、香港の返還問題を抱えていたのである。そのため、蔣は日米開戦と同時に近代からの領土問題と不平等条約撤廃問題の解決を望み、42年10月には治外法権撤廃、43年1月には対等な立場の友好条約である中米(英)平等新約締結へと、蔣の外交戦略は実を結ぶのである。

 蔣介石は日米開戦と同時に抗日戦争の勝利を確信し、戦後構想を各所で提起していく。1943年3月、『中国の命運』を出版したが、新国家の基本を「文化、経済、国防」の三位一体とすること、国民党と三民主義青年団がその中心となることが強調された。これは明らかに毛沢東の『新民主主義論』と「三三制」に対するアンチ・テーゼとなる。共産党はこの対抗措置として、周恩来が1943年8月「蔣介石国民党をファシズム」と規定する論文を発表し、蔣が拠り所とする「三民主義」とアメリカとの連帯を理論的に断ち切る論説でもって、蔣を国内的にも国際的にも孤立させようとした。抗日戦争終結を待たずして、国共は戦後構想をめぐり対立し情報戦を展開していき、戦後の国共内戦へと激化していくのである。

 蔣介石は前述したようにイギリスとソ連との間の領土問題の解決を強く望んでいた。一方でイギリスのチャーチルは、ルーズヴェルト大統領とは違い、中国を四大国の一つとは認めておらず、民族自決の意識もなかった。チャーチルは自らの使命を戦前の大英帝国の支配回復にあると公言していたのである。よって、蔣の発言と行動はイギリスには挑戦的で耳障りなものとなっていく。そのなか、1942年2月の蔣介石のインド訪問は、チャーチルに強い憤りをもたらした。蔣は滞在中のラジオ放送の中で、イギリスに対して「速やかにインド国民に政治上の実権を与えるように期待する」と述べている。イギリスの国益に反するこの無頓着な蔣の行動と発言は、戦後全ての植民地は解放されるべきだというメッセージとして受け止められ、イギリスとの対立の要因となっていく。

 1943年11月23日、エジプトのカイロでいわゆるカイロ会談が開催されカイロ宣言が発表された。チャーチル首相、ルーズヴェルト大統領と蔣介石の三者会談となったこの会議で、日本の戦後処理について決められたことは後のポツダム宣言にも反映されることとなり、東アジアの戦後の国際秩序形成に大きな影響を与えた。席上「日本未来の国体問題」が議案となったが、蔣はそれは「戦後を待って、日本人民が自ら決定すべきこと」であると主張し、ルーズヴェルトの同意を得た。そのため「カイロ宣言」に戦後日本の国体に関する条項は盛り込まれなかった。この「日本未来の国体問題」への提言の真意は、イギリスを牽制することにあったといえる。すなわちルーズヴェルトに実質的民族自決主義を認めさせることで、イギリスの植民地政策を暗に批判し、アメリカと共同歩調をとっているという印象を与える戦略が窺える。蔣はイギリスに対してチベット、香港の領土問題についての話し合いを企図したが、チャーチルは同意せず無視した。

 ルーズヴェルトは蔣に、戦後、国民政府に中国共産党を迎え入れた国共統一政府を提案したが、ソ連が東北四省に介入しないことを条件に受け入れた。ソ連の対日参戦に関しても、蔣は同様の条件を出したのである。またこの時、蔣は琉球(沖縄)問題にも言及し、中国とアメリカの共同管理を提議したが、現実には戦後沖縄はアメリカの単独占領下に置かれたのであった。

 11月27日、蔣介石は帰国するも、チャーチルルーズヴェルトテヘランに向かい、ソ連スターリンとの三者で対独戦に関する会談を持ち、ここでスターリンは「ドイツが降伏すれば、日本に対して宣戦する」こと、英米はその代りにヨーロッパ戦線を優先するとの約束を交わす。ヤルタ会談よりも前に、ソ連の対日参戦は話し合われていたということになる。

 1943年12月1日、日本の無条件降伏をうたったカイロ宣言が発表された。要旨は①英米中の三大同盟国は、日本国の侵略を制止し、罰するための戦争を遂行しているのであり、自国のための利益や領土拡張の意図はない。②目的は、日本が1914年の第一次世界大戦後に奪取し、又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに満洲、台湾・澎湖諸島の如き日本人が中国人から盗取したすべての地域を中華民国に返すことにある。③朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮に自由且つ独立をもたらすことを決意する。このカイロ宣言は、蔣介石の意向が強く反映されていたもので、東アジアの戦後の国際関係を決定づけるものとなった。しかし、この時チャーチルと対立したことで、中国はその後の戦後構想から疎外される場面が多くなっていく。

 1945年2月、ソ連のクリミア自治区のヤルタで秘密会議が開かれた。ルーズベルトチャーチルスターリンの3人が出席したこの会議に、蔣介石は招待されなかった。ヤルタ密約の内容は、ドイツが降伏し、ヨーロッパにおける戦争が終結した後に2~3か月を経て、ソ連が定められた条件により連合国に与して日本に対して参戦することに関する協定を結ぶというものである。定められた条件とは①外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持②樺太(サハリン)の南部及び隣接する島嶼ソ連への返還、大連におけるソ連の優先的利益の擁護、旅順口の租借権の回復、南満州鉄道の中ソ合弁会社設立③千島列島のソ連への引き渡し、というものである。本会議では台湾と朝鮮についても話し合われたが、台湾はカイロ会談での決定通り中華民国に返還されることが再確認されたが、朝鮮半島に関しては、蔣介石の強い意向で取り入れられた朝鮮の独立は認められなかった。元来信託統治論者であったルーズベルトにより、連合国の信託統治とするとされたのである。

 ヤルタ会談の内容は、中国の主権にかかわるものが多いが、事前協議もなく1カ月遅れで中国に知らされた。ソ連の対日参戦の条件①②は蔣介石の長年の主張を英米ソにより覆されたこととなった。太平洋戦争勃発後、中国はその国際的地位を飛躍的に上げたものの、領土問題においてイギリスとソ連との問題は解決できなかったのである。