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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  6.戦争の東アジア①

6.戦争の東アジア①

 宣戦布告しないままに始まり、拡大し長期化した日中戦争。その原因を国際的、国内的要因から分析します。戦争の経過をグローバルな視角から概説するとともに、中国で展開された持久戦論の背景も考察します。

 

 日中戦争は、日本と中国共に宣戦布告しないままに拡大し、長期化した。両国が宣戦布告しなかった(できなかった)のには、「不戦条約-ケロッグ・ブリアン協定-」とアメリカの「中立法」の存在があったといえる。前者は、国連が定めた戦争の禁止が限定的で不完全であったために、その是正のために1928年に締結された「戦争の放棄に関する条約」であり、日中は共にこの条約に加盟していた。すなわち宣戦布告することは、不戦条約に違反することになった。また後者は、モンロー主義に基づきヨーロッパの戦争に対し中立を維持しつつ、戦争特需で得た資金力と豊富な資源を背景に、戦争を起こそうとする国をけん制するアメリカの法律である。資源に乏しい日本は、アメリカからの資源輸入の依存度が非常に高かったため、中立法に触れる宣戦布告は憚られた。また蔣介石は国際世論に訴え、欧米からの武器や資金の援助を受けるべく外交戦略を展開していた。アメリカのルーズヴェルト大統領については対日参戦を促す直接交渉を頻繁に行ったが、この中立法が障害となったのである。

 1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発する。盧溝橋は、北京郊外の永定河にかかる石橋で1189年に建設された。橋の欄干にすべて形の異なる大小485頭の獅子の彫刻が施されているこの橋は、マルコ・ポーロにより「世界で一番美しい橋」と紹介された。そのため欧米ではMarco Polo Bridgeとよばれ、盧溝橋事件はMarco Polo Bridge Incidentという。事件が起きた当時、日本の支那駐屯軍の兵士は盧溝橋付近宛平県城北側で夜間演習を行っており、すぐ近くには中国軍が永定河堤防付近で夜間工事を行っていた。

 7日午前10時40分、何者かが2度にわたって支那駐屯軍の演習場に向け発砲、翌8日にも銃声を確認した日本は戦闘準備に入り、総攻撃を開始した。この発砲については、発生から80年以上たった現在でも真相がわかっていない。日本側の陰謀説、中国軍の発砲説、中国共産党の犯行説、中国軍の誤認発砲説、などさまざま存在する。

 

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 事件発生直後、現地の石原莞爾参謀本部作戦部長は不拡大政策をとり、停戦交渉を行うと現地協定を成立させた。しかし、東京では近衛文麿内閣は派兵を閣議決定してしまう。近衛は、事態拡大を望んではいなかったが、中国軍に一撃を加え、抗日作戦を転換させようという「拡大派」の「一撃論」を信じたのである。一方、蔣介石は宋哲元からの電報による報告を受け、日本が先制攻撃をしたとの認識でいた。北平への日本軍による侵攻を知った蔣介石は、「不戦不和」「一面交渉、一面抵抗」を国策とするしかないと、日記で記している。共産党との国共合作交渉もその中進み、9月には第2次国共合作が成立し、中国は抗日戦争を戦う体制を固めた。国民政府はソ連との不可侵条約も5年の有効期限付きであったが締結した。


日本を尊敬しながら敵にした蒋介石の生の声と
戦中と戦後の「事実」を明らかにする。
蒋介石の日記を読み通したこれまでにない日中台関係史。

 

 7月29日、日本軍は永定河以北の北平・天津地区をほぼ制圧し、宋哲元軍は撤退した。蔣介石はこれより「応戦」から「決戦」準備へと入る。妻の宋美齢の強い要請を受け、アメリカの陸軍航空隊大尉だったシェンノートを顧問として中国に迎えると、中国空軍の整備に注力した。また日本軍の軍事拠点の空爆を図り、上海を実行場所に決定する。上海は諸外国の共同租界があり、日本が軍事行動を起こせば国際制裁が下り、和平交渉に有利だとの蔣の判断であった。一方で日本は、上海での抗戦はないとの見解であったが、それに反して中国側の上海戦準備は着々と進み、8月14日中国空軍は空爆を開始した。蔣は当初、上海空爆に強い勝算があったが、結果的には未熟な中国空軍機が共同租界などに誤爆を繰り返したため、逆に国際的批判を浴びることになってしまった。日本軍は上海攻撃と同時に南京にも連日空襲を行ったため、蔣は上海撤退を決断、11月には四川省重慶に遷都すると公表した。遷都後も蔣は南京にとどまっており、防衛の総指揮権を与えられた唐生智司令官率いる南京護衛軍が、南京を守っていた。日本軍はあくまでも南京を首都として固執し、南京攻略にこだわった。12月11日、日本軍は南京城外中山陵を占領すると、中山門城に攻め込み、13日には南京占領を発表する。蔣からの撤退命令を受け、唐生智が南京護衛軍の撤退を完了したのは13日未明の事である。中国正規軍が撤退した後に、日本は南京を占領したこととなる。いわゆる「南京大虐殺」は逃げ遅れて投降した兵士や一般市民に対し、日本軍が数週間にわたって殺害行為に及んだものである。被害者数には諸説あり、現在日本側は「不明」との見解であるが、中国側は1985年8月15日に鄧小平が南京にオープンさせた「南京大虐殺記念館」の入口に「被害者300000」の文字が刻まれており、30万説にこだわっている。習近平国家主席は2014年から12月13日を国家哀悼の日とすることを決定した。

 1937年中は日中両国で戦闘が続いたが、和平交渉も何度も試みられた。しかし日本が蔣の下野を前提に共同防共政策を条件としたため、「容共抗日政策」にソ連の援助が期待できた蔣は応じられなかった。この交渉が難航すると、近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず」とする第1次近衛声明を発表する。この背景には汪精衛などの親日政権が、華北・華中に成立していたことがあった。日本は親日勢力拡大作戦をとり、ビラやポスター、ラジオなどを駆使し「宣伝戦」を繰り広げたのである。そのさなか、1938年5月、蔣介石と毛沢東はそれぞれ独自の持久戦論を発表する。蔣は「最後の勝利は、必ず最後の5分まで堅忍したものに帰する」と述べている。蔣は「最後の勝利」を「以夷制夷」に求め、日ソ開戦、日米開戦に期待し、「外交は無形の戦争」の持論を実践すべく、国際条約を遵守する「平和を希求する国家」のアピールによって国際世論を起こし、同情と援助を引き出す戦略をとったのである。一方、毛沢東は「戦略的持久」論を唱えたが、その目的を「抗戦力の強化」と「国際情勢の変動と敵の内部崩壊」においた。そこには野坂参三日本共産党の抗日活動に対する期待も含まれていた。

 日中戦争は全土で繰り広げられたわけではなかった。満州国華北などでは戦時とはいえない日常生活があった。親日政権下にあったこれら地域は貿易や観光が発展し、日本留学も盛んであった。一方で、戦場となった地域の被害は甚大であった。しかし合作を行ったものの、中国国民党共産党は次第に離反していき、自軍の勢力拡大と温存を重視するようになる。

 日本においては、戦時体制の強化に伴い1938年「国家総動員法」が公布され、徴兵により兵役が義務付けられ、言論統制も強化され一般市民の生活をも厳しく統制していく。植民地下にあった朝鮮と台湾にも、国家総動員法は適用され、統制が厳しくなる。いわゆる「皇民化政策」も開始され、学校においては日本語教育が徹底された。

 日ソ開戦か日米開戦が早期に起きることを望んでいた蔣介石であったが、1939年9月、第2次世界大戦が勃発すると、日米は早期に参戦すると予測した。しかし日本は不介入、アメリカは中立の立場をとったため誤算となった。その後ルーズヴェルト密着外交に注力するも、アメリカの「中立法」の前に交渉は難航する。しかし、アメリカ外交が急転する事態が起こる。1940年も日独伊三国同盟の成立である。昭和天皇も強い懸念を抱いていたこの同盟は、「大東亜共栄圏構想」を主張する松岡洋三の強い主張により締結されたものであるが、ここからアメリカは日本をファシズム国家の一員とみなすようになり、屑鉄や鉄鋼などが禁輸、ルーズヴェルト大統領は対日参戦を示唆する発言を行うようになったのである。41年ソ連と不可侵条約を結んだ日本は、日ソ開戦の可能性はなくなったものの、ABCD(America・Britain・China・Dutch)包囲網の成立、アメリカの石油禁輸措置などにより追い詰められていく。この好機に乗じ中国は、ルーズヴェルト大統領に対する密接外交をさらに加速させていくのである。