ハートノエムノブログ

放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  5.日中戦争への道

5.日中戦争への道

 なぜ日中戦争に至ったのか、日中両国における政治的、社会的変動や国際関係が及ぼした影響について考察します。南京国民政府の国家統一が日本に与えた危機感は、満州事変後、一気に日本を軍国化させることになります。

 

 第一次世界大戦後のアメリカは、大戦中に得た戦争特需により、戦後世界の商業・金融市場における支配的地位を確立する。世界の金の半分を保有し、米ドルが共通通貨となり、日本も中国も対米依存が強まっていく。「ウィルソンの14カ条」の第4条にある「軍縮」に基づき、1921年11月からハーディング大統領提唱のワシントン会議が開催された。そこで締結されたのが「四ヵ国条約」「九ヵ国条約」「海軍軍備制限条約」である。九ヵ国条約と山東還付条約により、山東省の既得権益はほとんど無効とされ、また海軍の主力軍艦の保有トン数の縮小も決まり、海洋国家である日本の海軍内部に強い不満を残すことになった。

 戦争特需で潤ったのは日本も同様だった。貿易黒字となり外貨準備高も過去最高となった日本は、海運業や造船業などの重化学工業が発展し好景気を迎える。これを背景として「大正デモクラシー」が展開されるのである。日露戦争は非戦論・反戦論、社会主義、女性解放運動の傾向を生み出したが、吉野作造は「民本主義」を提唱し時代を代表するイデオローグになっていった。大正デモクラシーの結果、男子に限って普通選挙が実現するが、女性参政権を求めて女性解放運動も盛んになる。平塚らいてう市川房枝などの活動家も活躍した。職業婦人「モダン・ガール(モガ)」が増え女性の社会進出が活発化するが、選挙権獲得は戦後まで実現しなかった。

 戦争特需で好景気を迎えたものの、日本は1920年代より不況に陥っていく。欧米諸国がアジア市場に復帰すると、日本の輸出は低下し不況となった。1923年に起きた関東大震災は、死者・行方不明者14万2,807人、家屋の全焼・全壊57万6,262戸という大災害であり、日本経済は壊滅状態に陥った。農産物価格も1925年ころから下落し始め、29年の世界大恐慌が追い打ちをかける。恐慌の震源アメリカに向けた生糸の需要が激減し、生糸価格が暴落したのである。それに伴い農産物価格も全体的に下落、30年には逆に豊作となり時の民政党浜口雄幸内閣によるデフレ政策と相まって昭和恐慌が発生し事態は深刻化していく。翌31年には逆に東日本が冷害に見舞われ大凶作、農村は疲弊し欠食児童や女子の身売りが大きな社会問題となった。不況による中小企業の倒産も深刻であり、失業率も15%に上昇した。大不況は米騒動労働争議ストライキを生み、21年には日本労働総同盟、22年には日本農民組合が成立している。

 


昭和初期の北海道が舞台。貧困のために室蘭の遊郭に売られていった少女「お梅」が主人公の女性の戦争史漫画です。遊女と北海道開拓に駆り出された労働者たち、軍国化していく日本と軍需産業の光と影の描写を背景に、社会の最下層におかれたお梅たちは、いかにして戦争という時代を生き抜いたのか。1992年日本漫画家協会賞優秀賞受賞作品。

 

 このような不況状態は、失業対策としてまた、不満解消としての大陸進出の世論を醸成していく。当時、ワシントン体制下、国際協調外交を展開していた幣原喜重郎外相は、陸軍や国家主義団体、立憲政友会、中国利権にからむ実業家たちから「軟弱外交」と非難され、中国への強硬策を求める声は高まっていった。

 1927年、中国国民党の蔣介石は上海クーデターを起こし、南京国民政府を樹立する。辛亥革命の失敗により分裂した南北を統一し、孫文の遺教となる三民主義による国家建設を実現するため、1926年より北伐(北京政府の打倒)を開始していたが、南京国民政府内部の権力闘争に一時敗れ、1927年8月に下野している。その時日本を訪問し40日間にわたり滞在、旧知の日本人(渋沢栄一犬養毅、梅谷庄吉など)に会っている。彼らは孫文時代からの中国革命支持者であり、蔣介石が絶大な信頼を寄せている人物たちであった。また、田中義一首相と非公式で会談し、北伐への理解と不出兵の要請をした。結果は大きく裏切られることになる。

 1928年、国民革命軍総司令に復職した蔣介石は北伐を再開し、山東省へ向かう。蔣介石は日本人とその居留地の安全を日本政府に約束したものの、馮玉軍の北伐軍が行った反日宣伝工作により日本人の虐殺や暴行などが横行した。これに対し田中内閣は居留民保護を名目に山東省出兵を閣議決定し天津から派遣軍を済南に到着させた。5月3日、国民革命軍と日本の山東出兵軍とが済南で軍事衝突する。8日には日本軍が総攻撃を開始し、済南全域を制圧する(済南事件)のである。この済南事件の時期が、五・四運動と「二十一カ条」の国恥記念日と重なったことが相乗効果となり、中国社会の反日・排日運動が各地で組織され展開する。この時の排日の組織化と運動の経験は、満洲事件後の全国的な抗日運動の母体となっていくのである。

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北伐当時の中国

  北伐軍が北京に迫る中、当時北京政府を統治していた奉天軍閥張作霖は、最後まで抗戦を主張していた。張作霖は、日露戦争時に田中義一から受けた恩があり、日本陸軍士官学校出身者を積極的に採用するなど、親日派であった。寺内内閣も張を支持し、経済的支援をすることで満洲への影響を強化していった。しかし北伐に対し奉天への撤退を決め、1928年6月3日北京から奉天へ向かう列車にのった張作霖は、4日爆殺されてしまう。ソ連の陰謀説があるものの、この事件の首謀者は関東軍参謀の河本大作といわれている。7日国民革命軍は北京に無血入場し、息子の張学良を服従させると、蒋介石は実質的に全国統一を完成させたのであった。このことを満蒙支配の危機ととらえた日本の軍部は強硬政策を強めていく。1931年9月奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆発された。実際には板垣征四郎大佐ら関東軍参謀の一部が起こした謀略であったが、関東軍はこれを中国側の仕業だとして軍事行動を起こし、奉天長春などの都市を占領した。これに対し蔣介石は「安内攘外」政策をとり剿共戦を優先させたため、国際連盟に提訴するにとどまった。蔣は当時の犬養毅に期待し軍部の行動は「猪突的」だと判断していた。

 満州事変後満蒙は実質上日本の支配下にはいり、32年3月には清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ出し「満州国」を建設する。この一連の日本の行動に不信感を深めた国際連盟が、イギリスのリットンを代表とする調査団を派遣し、33年3月には満州国の正当性が国連で否決された。日本は代表であった松岡洋右が連盟を脱退し国際的に孤立する。

 蔣介石は中国国内で活動する朝鮮独立運動を支援していた。1919年3月に上海で「大韓民国臨時政府」が樹立したが、その代表となった金九を蔣は軍事的にも支援し、1940年重慶に定着した金九は国軍としての「光復軍」を創設するに至る。光復軍は太平洋戦争が勃発すると、中国とともに日本に宣戦布告することになる。

 満州事変後、日本においてはワシントン体制下の軍縮ムードから一変し、国家社会主義ともいうべき思想が蔓延する。1931年、組閣した立憲政友会犬養毅は、満州事変については話し合いでの解決を図ろうとした。犬養はアジア主義者であり、孫文や蔣介石の支援者でもあった。しかし、32年5月15日、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生らのテロにより暗殺される。ロンドン軍縮条約調印に対し海軍には政府への不満が募っており、長引く不況の打開策を大陸進出に求めた民衆からは、満州事変への喝采までもが起こっていた。犬養の暗殺により、政党政治は終わりを迎えた。

 当時の陸軍には「統制派」(とうせいは)と「皇道派」(こうどうは)という2つの派閥があった。「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥であり、彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうとした。これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派だった。両派の対立は、「統制派」が勝利するが1935年、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長を、「皇道派」の相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐が斬殺する『相沢事件』などがおきる。これに勢い付いた皇道派は1936年2月26日、クーデターを起こし斎藤実高橋是清重臣を殺害した。天皇親政政治を実現する「国家改造」の「昭和維新」を画策したが、昭和天皇に拒絶され失敗に終わる。

 二・二六事件が蔣介石に与えた影響もまた大きかった。翌日の日記には「これにより禍乱は日ごとに深まり、侵略は必ずや激しさを増すだろう」と書いている。前年の35年には中国共産党からは一致抗日を呼びかけられており、日本の軍国化と抗日運動の全国化、本格化は東アジア全体を大きな渦に巻き込んでいく。

 1928年、爆殺された張作霖の息子である張学良は、事件後蔣介石の国民政府に服従しつつも、微妙な立場に立たされていた。学良は日本によって父や家、経済的基盤であった故郷を奪われ多くの拠り所を失っていた。そこに満州事変が起き、蔣介石からは日本軍に対しては「不抵抗を構え、つとめて衝突は避け」るように指示されていたのである。満州を失うことは自分のみならず、部下である東北軍の兵士たちの故郷をも奪う事であり、不抵抗は到底受け入れられなかった。

 1936年、陝西省北部の紅軍の攻撃命令が蔣介石より出される。この時すでに東北軍の士気は低下しており、兵士たちは張学良に抗日戦争を主張する。その学良に中国共産党が接近し、周恩来と一致抗日を達成するために会談した。36年12月、西安郊外の華清池で張学良軍は蔣介石を捕らえ市内に幽閉する(西安事件)。この時国民政府内では、武力進行を主張する何応欽ら強硬派と、救出優先を主張する妻の宋美齢ら宋一族とが対立していた。コミンテルンの意向を受けて中国共産党周恩来を交渉人に蔣介石のもとへ派遣する。この時コミンテルン共産党ではなく、蔣介石に抗日の全指揮を託そうとしていた。周恩来と蔣介石は会談し、剿共戦の即時停止を蔣が承諾した。また蔣の要求に対し「紅軍は蔣先生の指揮を受け、中国の統一を擁護」すると約束した。蔣は会談後解放され、学良は身柄を拘束され長い幽閉生活に入る。

 国民党内部に起きた対立により、何応欽ら親日派反共主義派は衰退し、欧米派の宋一族が権力を掌握した。妻美齢は何応欽の行動を問題視し、自ら空軍指揮をとることを蔣に申し出ると飛虎隊を創設するなどし、政治的関与を深めていった。中国国内ではますますナショナリズムが激化し、抗日事件が頻発した。日本では、この西安事件の過程を通じ、統一国家を成し遂げた蒋介石のリーダーシップを目の当たりにする。また高揚する中国ナショナリズムの対象としての日本を認識することとなり、日本は既得権益保護、華北分離政策を加速させていくのである。