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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  4.第一次世界大戦・ロシア革命とアジア

4.第一次世界・ロシア革命とアジア

 1914年に勃発した第一次世界大戦に日本はいち早く参戦し、中国に「対華二十一カ条の要求を受諾させます。そんな中17年に起きたロシア革命と、ウィルソンの民族自決主義を唱えたアメリカの台頭は、東アジアにどのような影響を与えたのでしょうか。

 

 1914年、サラエボ事件を契機に第一次世界大戦が勃発する。独墺対英仏露の戦いとなったが、日本は開戦後1か月もたたない8月23日、日英同盟を理由に対独宣戦を布告する。しかし、参戦の本当の意図は中国にあった。日本は軽工業製品の市場として、また重工業の原料供給先として中国に注目しており、第一次世界大戦でヨーロッパ諸国が中国から離れるのを好機ととらえ、中国進出政策を具体化させる。日本の目的はドイツが持っている山東省の権益、満洲の特殊権益の安定化、中国に対する政治的影響力の強化にあった。

 1915年1月18日、日本は「対華二十一カ条の要求」を袁世凱大総統に手交した。非公開にするよう申し入れたが、その内容に驚いた袁は22日に公開して問題を公にした。これを知った英仏露が日本に説明を要求、米は「第5号要求」に多大な関心を示す。この第5号要求こそが、中国の主権を無視した内政干渉、警察権への介入という、これまで帝国主義諸国も要求してこなかった植民地支配にも匹敵する内容だったのである。第5号要求は各国の批判もあり、警察に関する条項を「撤回」し、保留となっていたが中国側には到底受け入れがたいものであった。日中両国は25回の交渉を重ね、5月7日、日本が最後通牒を突きつけ、軍事的に中国を威圧すると、袁世凱は9日ついに受諾を表明した。中国では5月7日と9日が「国恥記念日」として各地で排日運動が起こるようになった。二十一カ条は中国における排日・抗日の原点となった。

 革命前のロシアは、ツァーリズムと呼ばれた皇帝専制の支配体制であった。ツアーリズムに対する批判と改革要求の動きは、まず1825年デカブリストの乱として現れる。これは、ナポレオン戦争に出兵し、パリで自由主義・民主主義、社会主義思想に影響を受けた青年将校等による武装蜂起であったが、すぐに鎮圧された。しかしクリミア戦争の敗北を機に近代化の必要性を痛感したロシア皇室は、アレクサンドル2世時の1861年農奴解放令」を出し、領主制を廃し土地所有権を保証、移動や婚姻などの人格的自由を認めた。一方で重税をかけたため農民は流民化し、農民反乱が頻発した。そのような中、ロシアの都市知識人層に社会主義思想が広まる。彼らはナロードニキ(人民主義者)運動を起こし、ヴィ・ナロード「人民の中へ」をスローガンとした。

 1898年、プレハーノフ、レーニン等によりマルクス主義による「ロシア社会民主労働者党」が結成された。1903年、同党はメンシェヴィキ(プレハーノフ派、ブルジョア民主主義革命を目指す)とボルシェヴィキ(レーニン派、労働者中心・農民との同盟により一気に社会主義革命を目指す)に分裂した。

 1905年1月9日、ガボン神父が先導したデモ行進に対し、軍が射撃し千人の死者を出した「血の日曜日事件」をきっかけに第一次ロシア革命が始まった。6月には戦艦ポチョムキン号の水兵による反乱が起こり、全国的にゼネストが展開された。この時、史上初のソヴィエト(搾取階級を排除して構成される労働者・農民・兵士による評議会)が結成される。

 1917年、第一次世界大戦をめぐり続行派と終戦派に宮廷内部は分裂していたが、ニコライ二世の退位につぎ続行派の弟ミハイルが即位すると、大戦の長期化で生活物資に窮していた民衆は激昂、3月16日ついにロマノフ王朝は崩壊し(二月革命)、ツァーリズムが終わった。二月革命レーニンはスイスから帰国し、「四月テーゼ」を発表すると民衆からの絶大な支持を得、臨時政府とボルシェヴィキの二重構造が出現する。11月、ボルシェヴィキ武装蜂起し政権を奪取、全ロシア・ソヴィエト大会を開催し政権掌握を宣言する。また、レーニンが発表した「平和に関する布告」は全交戦国に対して「無併合・無賠償による即時講和」が提唱され、戦争とそれをもたらした帝国主義に対する徹底的な批判を展開し、植民地国と帝国主義国両方に強い影響を与えた。

  日本における「社会主義」思想の広まりは、中国共産党の創設へとつながっていくことになる。1904年、マルクスの「共産党宣言」の翻訳が、堺利彦幸徳秋水が発行していた「平民新聞」の創刊1周年記念として掲載された。この時期はアジア(特に中国)からの留学生が急増した時期でもあり、多くの中国人留学生が大学で社会主義思想に深く傾倒していった。陳独秀、李大釗、周恩来、陳望道等は、日本で社会主義の洗礼を受け中国に持ち帰り、中国国内での社会主義運動を先導したのである。

 第一次世界大戦が勃発しても、アメリカは当初3年間は「不介入」の立場であった。それはアメリカの2つの外交戦略に起因する。一つはモンロー主義といわれる孤立主義外交の基本精神である。これは第5代大統領ジェームズ・モンローが1823年に出した「アメリカのためのアメリカ」宣言によるものである。もう一つはマニフェスト・デスティニー(自明の理)であり、当初は西部開拓を正当化する標語であったが、アメリカによる普遍的価値観(独立、自由、民主、平等、人権)の世界への普及へとつながっていった。1917年、ドイツの潜水艦による無差別攻撃がアメリカの船舶を攻撃するとして対独宣戦布告を行った。中立を守った3年間でアメリカは、ヨーロッパ諸国に自国製品を輸出し多額の利益を得ており、この戦争特需で債務国から債権国へと転換していたのである。1918年、第28代大統領のウッドロウ・ウィルソンは「14カ条の平和原則」を提起する。この14カ条のうち第4条では軍備縮小を、第5条で民族自決主義を、第14条では国際連盟の設立を唱え、特に第5条の民族自決主義は植民地支配に苦しんでいた諸国に多くの期待を与えた。また、実際に国際連盟1920年ジュネーブを本部に置き発足したが、アメリカ自体はモンロー主義の原則により議会の承認が得られず、加盟していない。

 1915年、対華二十一カ条を受諾した袁世凱は声明を出し、中国が日本に対抗するための必須条件として、中華の復興と帝政の復活を国民に向かって説明した。袁の米人法律顧問であったF・J・グッドナウが「亜細亜日報」に掲載した「共和と君主」に、この帝政復活は端を発している。グッドナウは中国在住の経験から「学校の欠如、人民の知的水準の低さ、政治参加の欠如、専制君主の伝統、列強の干渉と侵略にさらされた厳しい国際環境などの要因を指摘し、共和制が中国には適さないという主張」を展開した。これを受けて袁の支持者は帝政運動を開始するのである。

 1916年、袁は洪憲皇帝と名乗り皇帝に即位、元旦をもって洪憲元年とされたが各地で反帝政運動が起こり、3月には袁は帝政を取り消し6月失意のうちに病死する。この反帝政運動は、大衆レヴェルでは「新文化運動」という形で現れる。新文化運動はまず、反儒教から起こされた。儒教を国教にしようと「尊孔運動」を展開する袁世凱に対し、北京大学教授であった陳独秀は反対を表明した。陳は自ら創刊した「青年雑誌」において、中国の伝統社会を「奴隷的、保守的、退嬰的、鎖国的、虚文的、空想的」であると猛烈に批判し、「自由的、進歩的、進取的、世界的、実利的、科学的」な社会の必要性を訴え、服従することに馴らされた国民の精神革命「倫理革命」を提唱したのである。このような新文化運動は主に、北京大学で展開された。1918年、北京大学の図書館主任として赴任した李大釗(リタイショウ)はロシア革命共産主義の理論を論文で発表し、また学内にマルクス主義研究会を設立、その普及に邁進したのである。

 1918年、ドイツが降伏し第一次世界大戦終結する。同大戦は理論的には帝国主義民族自決主義との戦いの側面を見せていたため、植民地支配に苦しんでいたアジア諸国は、ウィルソンの民族自決主義が実現されるものとして、大きな期待を寄せた。しかしその戦後処理は、戦勝国であった英仏日などの国益優先で、植民地問題を棚上げにした矛盾だらけのものとなった。

 朝鮮において、1919年3月1日「独立万歳運動」が全国レヴェルで起きた。いわゆる三・一運動であるが、このきっかけは在日朝鮮人留学生たちが出した独立宣言であった。彼らは「朝鮮青年独立団」を結成し、2月8日準備していた「独立宣言」を日本の政治家や各国大使館に送った。同団の主要メンバーのうち検挙されなかった学生が、朝鮮に渡り三・一運動を計画したのであった。この運動は軍隊と警察により鎮圧されたが、李承晩や金九ら活動家は上海で「大韓民国臨時政府」を樹立し、李承晩を大統領に選出、李はアメリカで活動することになった。中国国内では孫文蒋介石は金九を保護し、独立運動を継続させた。

 中国では、大戦後戦勝国となったため、パリ講和会議での民族自決主義に期待した。二十一カ条の無効を要求する嘆願書を提出するも、英米仏が「条約の神聖」を理由に中国の主張は却下されてしまう。中国国内の失望と欧米への不信感は強まり、1919年5月4日北京大学を中心とする学生の大規模デモが天安門で起こる(五・四運動)。この欧米への失望の反動はロシア革命レーニンの「平和に関する布告」への期待に代わっていく。レーニンは「カラハン宣言」を発表し、「外国領土の一切の掠奪の拒否、外国民族の一切の強制的併合、一切の賠償の拒否」を主張し、中国に対して帝政ロシアが締結した不平等条約を廃棄することを宣言した。このことが、清朝末期から不平等条約に苦しめられていた中国人民を深く感動させることになる。このような状況の中、孫文ソ連への傾倒を深めていき、19年10月、東京で中国国民党を改組し革命の新たな展開を目指すようになる。

 1920年3月、コミンテルン代表団が北京で陳独秀接触すると、陳は李大釗らとともに中国共産党の前身である共産主義小組の設立に奔走する。21年春までに北京、武漢、長沙、済南、広州等で共産主義小組が成立し、21年7月には中国共産党第1回全国代表大会が挙行された。この会議において、党の名前を中国共産党とすることが決定され、総書記に陳独秀が選出された。

 二十一カ条は中国にとってはまぎれもなく国家的屈辱であり、危機であった。その危機意識が中国共産党を生み出す機運を醸成し、中国革命を新たなるステージへと導いたのである。

 中国においては、中国共産党設立後、孫文中国国民党との合作が推進された。1924年1月、第一次国共合作が行われた。孫文の最大の目的は、独自の軍隊をソ連の援助により創設することにあり、広州に近い黄埔島に陸軍士官学校が建設され、蒋介石が校長として就任する。しかし北京入りした孫文は、25年肝臓がんを悪化させ死去してしまう。孫文の遺嘱の引継ぎをめぐり、国民党内部が分裂していく中、共産党は組織を拡大させ国民党の指導権を脅かす存在となっていくのである。

 1927年4月、蒋介石は上海でクーデター(四・一二クーデター)を起こし、南京に反共の国民政府が発足する。武漢政府との国民党統一が実現されると、28年1月国民革命軍により北伐が開始された。10月、南京国民政府が全国支配を達成し、孫文の三秩序(軍政、訓政、憲政)に則った国家建設を開始した。このことを好意的に受け止めた欧米諸国は、関税自主権を撤廃する。中国に民族資本発展の可能性を与えたこの措置に、危機感を持ったのが日本であった。中国経済発展の可能性はアジアで唯一の先進国日本の地位を脅かしかねなかった。その後、日本は満蒙などの既得権益固執していくのである。