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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  3.辛亥革命と東アジアの変動

3.辛亥革命と東アジアの変動

 日清戦争後の1910年代は東アジアにとって激動の時代となりました。日本は朝鮮に対する植民地政策を始め、翌年10月中国では辛亥革命が起き、12年1月中華民国が成立します。その臨時憲法である「中華民国臨時約法」は、アジアで最初の民主憲法でした。そのような中国の変動は、日本へどのような政治的・社会的影響を与えたのでしょうか。

 

 1894年、日本は清朝に宣戦布告する直前に、朝鮮王宮を占拠し閔妃一派を廃し、大院君を擁立する。しかし、下関条約にロシア、ドイツ、フランスが干渉し、遼東半島の返還が決まると、閔妃一派は親露政策をとり勢力を盛り返していく。当時の第2次金弘集内閣は朝鮮公使だった井上馨とともに、親日的な改革を推進していたが、閔妃一派の攻勢により失敗に終わった。井上に代わり朝鮮公使になった三浦梧楼は1895年10月、景福宮に侵入し閔妃を殺害、遺体を運び出して焼き捨てるという暴挙に出てしまう。この事件が国際問題化すると日本は三浦を解任・召還して事件の鎮静化を図った。親露派は一旦後退するも第4次金弘集内閣は民衆の反日感情を悪化させ、86年大規模な「義兵運動」が起きた。金は軍隊によりこの運動を鎮圧しようとしたが、その間に親露派がクーデターを起こし、国王高宗をロシア公使館に移し、親露政権を樹立した。金は殺害され親日派は日本に亡命する。

 1897年高宗は宮殿に戻り、同年10月皇帝となり国号を「大韓帝国」とすることを発表した。その後、近代的な立憲君主制を目指して「万民共同会」を組織し、民衆に文明開化の必要性を訴えていた「独立協会派(元開化派系)」と親露派との対立が激しくなっていく。この動きに対し、高宗は98年、この二つの会を強制解散させ、99年「大韓国国政」を公布し皇帝独裁を強化した。

 韓国に対する影響を強めるロシアは、1900年7月義和団事件の8ヵ国出兵に際し、満洲に単独出兵して占領し、日本に対して韓国の中立化を提案する。このようなロシアの満洲、韓国に対する積極策に対し、日本はイギリスとの同盟関係により対抗しようとした。1902年、利害の一致を見た日英両国間で「日英同盟協約」が締結された。アメリカもその後、ロシアの満洲独占に強く抗議し日本への追い風となる。

 ロシアは清朝満洲独占を合法化しようと圧力をかけ、条約締結を迫るも拒俄運動(反ロシア運動)が起きる。日本においても留日学生らまでもがこの運動を激しく展開した。このロシアの野心を削ぎ、満洲と韓国に対する日本の影響力を確立するべく日露戦争は勃発した。アメリカの仲裁により締結された「ポーツマス条約」では、日本の韓国に対する圧倒的優位な地位が認められ、旅順、大連を支配下に治め、南満州鉄道を獲得した。日露戦争の勝利は、日本が帝国主義国の仲間入りを果たし、本格的に大陸へ侵出する契機となったといえる。

 1904年、第一次日韓協約を結び日本は韓国の保護国化政策を進めるが、韓国内では激しい義兵運動が各地で展開された。韓国人の反日感情の高まりは、伊藤博文ハルビン駅で安重根に射殺されるという事件にまで発展した。この事件は日本の韓国併合を加速させ1910年8月「韓国併合に関する条約」調印をもって韓国皇帝は退位し、大韓帝国はその短い歴史を閉じた。

 清朝においては、西太后が1908年、大日本帝国憲法を模した「欽定憲法大綱」を公布した。大日本帝国憲法は、自由民権運動の高まりから憲法草案が民間から起草され、下からの運動に下支えされた経緯があり、主権在民三権分立基本的人権の尊重などが主張されたが、西太后の発布した同憲法は皇帝に法律制定権、司法権が付与され、国民の自由が制限できる皇帝専制の内容であり、「議会」の介在の余地が全くなかった。この制度改革の限界に対し、清朝の立憲派の人々は失望した。光緒帝、西太后は1908年11月14、15日に相次いで死去し、清朝はこれより弱体化、滅亡へと向かうのである。

 清朝末期には改革派と同時に革命派が存在していた。その代表格が孫文である。1866年に広東省に生まれた孫文は、ハワイで牧場経営を成功させていた兄の孫眉を頼って、ハワイに留学中にアメリカ型民主主義とキリスト教の影響を受けた。1894年には「興中会を設立、「駆除韃慮、回復華夏(満州族を追い出し、中国を回復する)」をスローガンに活動を展開した、孫文満州国による異民族支配を終わらせるべく、アメリカ型の政府を樹立し中華を復興させたいと願っていた。

 孫文の革命運動は非合法とされたため、彼は活動拠点を海外に置かざるを得なかった。日本においても多くの支持者を得られたが、1905年には中国同盟会の結成大会を東京の赤坂で開催している。中国同盟会はその後何度も革命蜂起したが失敗に終わり、孫文清朝から指名手配を受け、日本に滞在できずに東南アジア、ヨーロッパ、アメリカを転々とし革命を訴え続けたのである。

 1907年、中国同盟会に不満のあった留日学生約100名が日本で「共進会」を設立、「平均人権」をスローガンに活動を展開した。同組織は国内と辺境における同時蜂起を目指し、清朝の新軍内部でオルグ活動をしていた。1911年10月、武装蜂起を準備していたものの、漢口のアジトでの爆弾の誤爆により武昌で一斉蜂起に踏み切る。この時オルグ活動で得ていた新軍兵士は5,000人にものぼった。



1910年、中国近代国家への夜明けにつながる“革命前夜”。
亡命の地マレーシア・ペナン島を舞台に、度々の革命失敗の苦境と失意、そして暗殺の危険に遭いながらも、愛する人に支えられ、理想を失わなかった世界的革命家・孫文の闘いと愛の日々を描く一大歴史ロマン。



 この武装蜂起は、しかし孫文が直接指導したものではなかったことが、後に宣言される臨時政府における孫文指導力に影を落とす一因となる。孫文はこの事件の一報を受けたときアメリカのコロラド州デンバーにいた。すぐに帰国するが船での帰国は12月25日となり、上海に帰着後中華民国臨時大総統に選出され、翌12年1月1日、南京で大総統就任と中華民国成立を宣言するも、短命に終わってしまう。長く中国国内から離れていたため、孫文清朝の首都北京を抱える北方に影響力を持たず、独自の軍隊を持っていなかったことが原因だった。そのため、北洋軍閥を率い北方で圧倒的軍事力を持つ袁世凱清朝皇帝の退位を条件に、臨時大統領の地位を孫文に要求、1912年3月臨時大統領就任を宣言した。

 袁世凱が大統領就任を宣言した翌日、孫文と宋教仁が起草に大きく関わった「中華民国臨時約法」全56条が発布された。これは中国のみならず、アジアで初めての民主的憲法であった。この憲法が機能していれば、中国は日本より35年も早く民主化していたことになるが、結果的には袁世凱の帝政復活の目論見により廃止される。臨時約法に基づき行われた13年2月の第一次総選挙において、国民党(中国同盟会系)は共和党(袁世凱派)に勝利した。これに対し袁世凱は、まず3月20日宋教仁を暗殺、4月26日各国と「善後大借款協定」を締結して軍事力の増強をはかる。これに対する反発が強くなると、5月31日南京の国民党機関を突然閉鎖したため、各地で反袁闘争が勃発(辛亥革命の第二革命)するが、袁の圧倒的軍事力に鎮圧されるのである。

 第二革命に勝利した袁世凱は、1913年10月6日北京で正式に中華民国大総統に就任し、11月4日には国民党に解散命令を出し、国民党籍議員の資格を剥奪する。14年1月には国会に解散命令を出し、5月にはついに「臨時約法」を廃止し、大総統の権限を拡大した「中華民国約法」自ら起草し公布する。こうした袁世凱による帝政復活の動きは、「対華二十一カ条の要求」と関連して、東アジアの国際関係史を次のステージへと導くこととなる。

 隣国中国で起きた辛亥革命による共和制の成立は、日本の政局にも大きな混乱をもたらし、1912年12月から始まる「大正政変」につながっていく。日本においては、清朝擁護派(立憲君主制樹立)と革命擁護派(近代的民主国家成立)にグループがわかれ、時に「強圧的」なあるいは「親善的」な対応を行う契機となったのである。政界のみならず、財界、言論界、一般社会にもみられるようになるこの現象は、対中外交の多極化現象としても現れ、日中戦争期と戦後にもみられる日本外交の特徴の一つとなるのである。また、辛亥革命がもたらしたアジア初の民主的憲法の理念(主権在民、法の下での平等、言論の自由)は、思想界にも及び女性の解放運動にも大きな影響を与えていくこととなった。