ハートノエムノブログ

放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  2.東アジアの近代

2.東アジアの近代

今回のポイントは、いわゆる「鎖国」体制をとっていた東アジア諸国が、「西洋の衝撃」に拠りどのように近代化していったのかです。西洋を模倣しいち早く近代化した日本が華夷的世界秩序に与えた影響は計り知れません。東アジアの近代化についての比較検討を通していわゆる「日本の衝撃」について考察します。

 東アジアの国際関係を長く規定していた華夷的世界秩序はイギリスの圧力によりその変容を迫られることになった。《アヘン戦争》である。イギリスは市場の潜在力が大きい中国に対し、貿易の自由化と近代的な外交関係の構築を望み使節を送った。しかしこれに清朝は応じなかった。清朝の国際感覚からすれば貿易とは「朝貢貿易」であり、下位国に対する施しでしかなったため、外国製品に無関心だったのである。一方産業革命に成功し、貴族以外にもブルジョアジーアフタヌーンティーを嗜むようになったイギリス国内では茶や砂糖の需要が急増しており、中国から茶や陶器などの輸入が増加していったため、対中貿易赤字(銀の流出)が深刻化する。そこで輸出できるものがインド産のアヘン位だったイギリスは、アヘンの密貿易という手段に出た。結果中国ではアヘンが蔓延し深刻な社会問題とともに銀の逆流現象が生じ始めた。

 1839年、欽差大臣に任命された林則徐は、イギリス商人から没収した2万箱のアヘンを海に投棄し、商人たちを広州から締め出した。これに対しイギリス議会は出兵を議決、1840年アヘン戦争が勃発したのである。

 イギリスが勝利したこの戦争後の42年、「南京条約」が締結された。これは清朝が結んだ最初の不平等条約となる。関税自主権は喪失し、賠償金の2100万ドルは国家収入の1/3に上った。賠償金の支払いのため増税が実行され、農民が流民化する現象が起きた。これが後の「太平天国運動」の要因となっていくのである。

 アヘン戦争の情報は、「唐風説書」の中の「阿片風説書」として1840~44年間で19件の報告があるほど、日本においてもビッグニュースだった。当時の江戸の学者たちはアヘン戦争について様々の分析を行っている。そしてその結果、アヘン戦争は「前車の覆るは後者の鑑」であるという結論に行き着く。つまり優れた西洋、遅れたアジアという国際認識を深めたことで西洋の技術を学ぶ必要性とともに内政を改革する必要をも同時に痛感するのである。そしてそれは後の開国論の理論的根拠となる。

 1842年、江戸幕府は「異国船打ち払い令」を緩和し「薪水給与令」を出し、外国船に燃料と水、食料を与えることとした。中国の次は日本ではないかというイギリスに対する危機感からであったが、1846年日本に通商を求めてやってきたのはアメリカであった。46年のビッドル米東インド隊司令長官の来航時は幕府は拒否したものの、53、54年と続けてペリー米東インド隊司令長官が来航すると、その軍事力に屈した江戸幕府は「日米和親条約」を締結した。58年には「日米修好通商条約」を締結し正式に貿易が開始された。本条約は関税自主権の喪失、領事裁判権が入った不平等条約であった為、これを断行した井伊直弼尊王攘夷派の武士に暗殺された(桜田門外の変)。因みにその後日本は不平等条約是正に向けて様々の外交努力を続け、1894年には領事裁判権の撤廃、1911年には関税自主権回復を果たしたが、一方中国において前者は1943年、後者は1930年代半ばだったことと比べると、極めて早く不平等の是正が実現できたということができる。

 開国後の日本国内は、公武合体派、尊王派、攘夷派、尊王攘夷派間の内戦状態(戊辰戦争)になるが、1867年10月14日徳川15代将軍慶喜が「大政奉還」を申し出、12月9日に朝廷が「王政復古の大号令」を発令、徳川支配が終わる。1868年1月1日発足した明治政府はスローガンに「百時御一新」を掲げ、政治、経済、社会、外交、文化などをすべて新しくする改革に踏み切る。3月14日、15歳という若さで天皇となった明治天皇は「5箇条の御誓文」発布した。「一、広く議会を興し、万機公論に決すべし」とし議会制の導入を唱え、「智識を世界に求め」として、グローバルは価値観を共有しようとしたことで、日本の近代の方向性を決定したのである。これを受ける形で明治政府は直ちに三大改革(兵制の改革、学制の改革、税制の改革)に着手する。これらの改革は日本の近代化を推し進め、産業革命もスムーズに移行し軽工業(特に繊維産業)は目覚ましく発展した。日本はヨーロッパ諸国の模倣に邁進し、衣食住はもとより思考、文化までもが急速に西洋化していったのである。明治維新という改革は、アジアの近代化のひな型とされ、中国、朝鮮においても近代化=日本化が試みられるようになっていった。

 19世紀後半は帝国主義の成熟期であったが、日本国内でも西洋列強による侵略への危機感が高まっていくなか、とるべき選択肢として「興亜」なのか「脱亜」なのかが議論された。前者は中国、朝鮮が日本と同様に近代化することで共に西洋の侵略から東アジアを守るというものであり、後者は中国・朝鮮と日本との区別化を国際的にアピールすることで、西洋の仲間入りをし侵略と分割を回避するというものである。この双方のオピニオン・リーダーとなったのが福沢諭吉であった。

 1872年、福沢は『学問のすすめ』の出版を開始し76年までに全17編が出版された。1860年から3回渡航した福沢は世界には「萬国公法宗(国際法)」があるとはいえ、国家間は決して平等ではないこと、文明の立ち遅れは国際的不平等の最大の要因といなっていることを目の当たりにする。日本が文明化し富国強兵ならしめるためには「学問」が必要であるとの結論に至った福沢が出版した『学問のすすめ』は「学制の改革」と時を同じくしたため一大ベストセラーとなった。

 それでは『学問のすすめ』における教育論と国家論とはどのようなものであったのか。「初編」の冒頭には「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という教科書でも取り上げられるあの有名なフレーズがある。これについては、福沢自身の言であり、あたかも人間の平等について語ったかのような解釈がなされているが、これは大きな誤解である。福沢の理論展開とはこうである。先の「天は人の上に~」と一般的に言われてはいるが、それは真実ではなく実際には「かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もあり」で「その有様雲と泥との相違」にも似ている。その差はどこで生ずるのか、それこそが「学ぶと学ばざるとに由って出来るもの」なのだ、と。福沢の主張は、人の上に立つためには学問をしなくてはならず、学問をしない人は人の下に甘んじなければならない、というものなのである。

 このような自身の教育論理を、福沢は国家関係にも当てはめた。それはつまり、先進国に並ぶためには「学問(近代化・科学技術の導入)」し、「富国強兵」に励む必要がありそれを怠る国は劣等国として先進国に従わざるを得ないという、帝国主義の論理に通じるものであった。このアジア蔑視を容認し侵略を正当化する理論は、福沢が「明治政府のお師匠様」と呼ばれ、近代化提唱者として英明な知識人の地位を確立しつつも、続く日本のアジア侵略の理論的根拠となったという点では、その責任はまぬかれないという批判が存在することもまた事実である。

 そんな福沢も当初は興亜論者であった。自身が設立した慶應義塾には朝鮮からの留学生を受け入れ、近代化教育を行っていた。1882年、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件(壬午軍乱)が起きる。この事件の謝罪の使節として朝鮮から開化党代表の朴泳孝(パクヨンヒ)と金玉均(キムオッキュン)が訪日したが、後にこの二人は日本の近代化を強く望み慶應義塾興亜会に所属し近代化政策を学んだ。帰国後朝鮮初の民間新聞「漢城旬報」を発行し、近代化を広く民衆に広めようとした。壬午軍乱後、朝鮮政府は事大党(清朝との関係を基礎に近代化を推進)等と、朴泳孝と金玉均らの独立党等の二大派閥に分裂しており、このような朝鮮国内の日本型近代化に危機感を抱いた清朝は3000の兵士を京城(現ソウル)に進駐させていたが、1884年、独立党によるクーデター「甲申政変」が起こった。このクーデターが清朝軍により失敗に終わると首謀者の一部は日本に逃れ、金は福沢宅にかくまわれた。朝鮮国内に残った関係者の一族は惨殺され、福沢は自ら主筆していた『時事新報』の1885年2月23日、26日号で「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という記事を書き、朝鮮の執政党とその背後にある清朝を激しく非難した。

 このように、当初は興亜論を展開していた福沢であったが、3月16日号の『時事新報』の社説で「脱亜論」を展開することになる。同盟国となるべき中国と朝鮮の「文明化は愚鈍であ」り、このままでは「日本自体の類焼を」招きかねず「武力を用いても」、「我日本の国力を以て隣国の文明を助け」るべきであるという結論に達するのである。日本における「近代化=西洋化」、アジアにおける「近代化=日本化」の図式が明確化され、文明を取り入れず旧態依然のままである中国と朝鮮は「今より数年を出ずして亡国と為り、其の国土は世界文明諸国の分割」となると断じた。「心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶する」とまで語った福沢の宣言はまさに、「脱亜入欧」の決意であったのである。

 アヘン戦争後の重税にあえぐ中国では農民が流民化していく中、1853年、洪秀全が指導し太平天国運動がおこる。洪は南京を占領して天京と改め太平天国の設立を宣言したが、この運動の鎮圧には不十分であった満洲八旗(清朝の正規軍)に代わり、満州族ではない漢民族による新軍が創設された。これら新軍の指導者たちであった曾国藩(湘軍)、李鴻章(淮軍)、左宗棠(楚軍)らは太平天国運動鎮圧の功績により、清朝内での発言権を高めていた。鎮圧の過程では外国の武器の優秀さを知るとともに、その技術導入の必要性を痛感する。中国最初の改革運動となる「洋務運動」はこのような彼らにより進められたのである。ここで「洋務」とは、中国においての対外事項のことを称するが、伝統的に外国との交渉事を「夷務」と蔑称していたものを、天津条約により使えなくたって以降に称するようになったもので、洋務運動のスローガンは「中体西用」(伝統的体制を西洋の技術により保管・維持しようとするもの)だった。洋務運動により、対外交渉のための人材育成が図られ、重工業中心の近代工場、銀行、鉄道、学校などが敷設されたが、これら新施設はほとんどが官営であったため、建設費が増税となって民衆へはね返った。また、諸外国からの借款も増加し、さらなる介入を招くこととなる。1884年清仏戦争に敗れた中国はベトナムの独立を認めることとなったため、徐々に東アジアにおける華夷的世界秩序は存亡の危機に面していた。ここから、中国は朝鮮への介入を強めていくのである。

 1894年、朝鮮の全羅道で始まった東学の乱(全琫準チョンポンジュウが指導、農民が蜂起)の鎮圧に窮した事大党は、清朝に援軍を要請た。この清朝の出兵は日本にとって絶好の朝鮮出兵の理由となった。日本では第二次伊藤博文内閣が、公使館、領事館、在留邦人保護を名目に出兵が閣議決定され、清朝に対する「最終文書」を朝鮮政府に手交した。回答期限未明に李王宮を武力制圧、閔妃勢力の抑え込みに成功すると国王高宗の父・大院君を国王に担ぎ上げた。大院君は清朝との宗属関係を破棄し、日本に対して新軍排除を依頼し、日本は清朝に宣戦布告するのである。

 日清戦争は日本の勝利に終わり、1895年、下関で「日清講和条約(下関条約)」が締結された。この不平等条約を中国に認めさせたことで、日本は欧米の帝国主義列強に匹敵する権利を中国に持つこととなる。朝鮮を植民地支配する基本条件、2億両(3億6,500万円)の賠償金(日本の国家歳入の2年半分)を得た。賠償金により銀から金本位制へ切り替えることができ、世界の金融市場に参入する条件も整った。また、賠償金のほとんどを軍備増強に充て軍事大国への足掛かりも得たのである。

 日清戦争後、中国では洋務運動の反省から日本化による近代化へ舵を切る。この「変法運動(変法=日本の制度改革)」と呼ばれた近代化運動は康有為が中心となった活動である。康は「上書(皇帝への進言)」を6回も続け、その6回目の上書を取り上げたのが光緒帝である。光緒帝は4歳の時に皇帝の位についたものの、伯母である西太后が政治の実権を握り続けていた。光緒帝はこのような事態を打開すべく1898年、27歳の時に康の上書を採用し「変法の上論」を発布した。光緒の新政とも称されるこの政策は、日本の明治維新を模倣して作られたものであったが、康が主張した議会の創設が謳われていなかった点が、決定的な限界点であった。西太后守旧派はこの改革に激しく反対し、変法派に欠けていた軍事力を集中することで変法派を孤立化させ、クーデターにより光緒帝を幽閉、変法派を逮捕した。康等は日本に亡命したが中国国内では変法派は壊滅的打撃を受け、西太后は改革停止を通告、光緒帝らの改革は「百日維新」で終わってしまうのである。



 

日本の明治20年(1887年)頃、清朝第11代皇帝・光緒帝の治世下。若い光緒帝が帝位にありましたが、政治の実権は西太后が握っていました。折しも、欧米各国が大陸に進出しようとうごめき、清国の将来をめぐって紫禁城西太后を中心にした守旧派と光緒帝を立てる改革派の思惑が入り乱れていました。
物語は二人の若者を軸に展開します。
一人は貧しさから脱する為、宦官(かんがん)の道を選んだ春児(チュンル)こと李春雲(りしゅんうん)。宮廷に入り西太后の寵愛を受け、出世していきます。
もう一人は官吏登用試験""科挙""に首席合格し、高級官僚の道を進み、光緒帝の側近となる梁文秀(りょうぶんしゅう)。二人が数奇な運命によって出会い、兄弟の契りを結ぶところから物語は始まります。
それぞれのやり方で衰退する清国の立て直しを計る西太后と光緒帝、そのもとに仕える春児、梁文秀たちを軸に物語は展開しますが、加えて、""謎の美女""ミセス・チャン、北京駐在日本人記者・岡圭之介、さらに多くの歴史上の実在人物が登場。世紀末の騒然とした北京を舞台に、人間ドラマが交叉します。
やがて紫禁城に運命の時が訪れます。実質的には母子であり、相手を思いやる関係でありながら、陰謀や裏切りの連続の中で西太后と光緒帝の間には決定的な対立、離反が起こり事態は急展開、登場人物たちを大きな時代の波が襲います・・・・・。



 1899年、「扶清滅洋」をスローガンに各地で排外運動を起こしていた義和挙は清朝に「団」を付与され半合法化されると、ついに天津、北京を占拠した。これに対し列強8ヵ国は連合して出兵、これを義和団の力で一挙に駆逐しようと考えた西太后は列強に対し宣戦布告を行ってしまう。1900年6月21日の事であった。8ヵ国連合軍は8月には北京を占拠し、西太后は光緒帝を連れて北京を脱出、西安に逃れる。翌1901年に結ばれた「辛丑条約(北京議定書)」は不平等条約のとどめを刺すものとなった。賠償金4億5,000万両は清朝の歳入の10年分以上にあたったし、科挙の停止という内政干渉も受けた。義和団事件は、中国を「次植民地化」状態に陥れる決定的事件となったのである。