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放送大学の受講ノートとやや偏好気味の読書感想です

現代東アジアの政治と社会  1.ガイダンス:東アジアの地域的特徴

1.ガイダンス:東アジアの地域的特徴

 今回の学習の目的&ポイントは、東アジアの国際関係を歴史的文脈から考察する、というところにあります。東アジアの抱える諸問題について、共通性と個別性、それらの今日における連続性及び非連続性についての考察です。

 まず、「東アジア」の定義について。国連の地理区分に基づきユーラシア大陸アジア州東辺を東アジアと区分する。その面積は1,015万9,233㎢で世界の総面積の7.5%、人口は約16億2,000万人で総人口74億5,000万人の22%を占めていることとなる。東アジアを構成する国と地域については、人口の多い順に中国、日本、韓国、北朝鮮、台湾、香港、マカオという構成となり(国連の規定ではモンゴルも東アジアに含まれるが、今回の講義では扱わないので割愛する)、特に中国の2017年の国別GDPは世界第2位であり、東アジアの中で中国は「日本に対し位相を上昇」(溝口雄三)してきており、21世紀は「中国の衝撃」から始まったといっても過言ではない状況である。

 近代以前の東アジアにおいて、文化的に共通項であったものは中国の「漢字」「律令制」「仏教」「儒教」であり、これらは「冊封」を媒介として広められた。中国の皇帝はその権威を神から授けられる天命説に因っており、近隣の文化の劣った諸国(東夷、西戎、南蛮、北狄)にも及ぶとされ、宗主国として中国皇帝は周辺国の王や首長に爵位や官号を授け、名目的な君臣関係を結んだのが「冊封」である。

 冊封される「朝貢国」は中国皇帝に対し、①忠誠②定期的な特産物の献上(朝貢)③中国元号の使用の義務が課せられ、それに対し中国は①有事の派兵②朝貢の返礼としての賜物を下賜した。②が朝貢貿易という外交上の性質を持った。

 日本においては、海を隔てていたこともあり華夷的世界秩序からは比較的自立的であったといえる。607年、推古天皇の摂政であった聖徳太子は隋の煬帝帝に宛てて「日出る所の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という書簡を遣隋使を介して送り、煬帝帝の激怒をかったといわれている。「天子」という言葉が日本の天皇と中国の皇帝を同等の立場としたものとみなされたからであるが、国際感覚に優れていた聖徳太子は、当時高句麗との戦いに疲弊していた隋が「遠交近攻」政策をとるものと見越して、このような書簡を送ったと考えられている。聖徳太子の遣隋使派遣の目的は、中国の律令制などの国家制度や憲法などを学ぶことにあり、朝貢概念は希薄だった。よって、遣隋使、遣唐使の派遣は894年には中止された。

 1368年、元を滅ぼした明は「海禁政策」をとり貿易は朝貢に限られるようになる。1392年に成立した室町幕府は貿易目的のために朝貢を再開する。足利義満は「日本国王」に任命されると日明貿易は盛んになり、幕府の重要な収益源となった。

 1543年、種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲や火薬がもたらされたが、同時にマカオやマニラを中継とする「南蛮貿易」の契機ともなった。戦国大名は独自に南蛮貿易を行い、自領地の産業、教育の振興に努めることで地方建設の素地を形成し日本の近代化に大きく貢献することとなる。

 1590年豊臣秀吉が全国を統一した。秀吉は「唐国平定」構想をもっており、朝鮮の一部割譲と中国に対して冊封なしの勘合貿易再開を望んでいた。1592年、朝鮮の李王朝に対し明朝征服の協力を求めたが拒否されると、15万の大軍で漢城(現ソウル)、平壌まで侵攻し各地を占領、民衆を殺害した(文禄の役)。李舜臣率いる水軍や朝鮮民衆の激しい抵抗、明の援軍により一時休戦し、97年の再出兵の翌年98年秀吉の死をもって全軍撤退(慶長の役)した。この秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮と明にとって日本は警戒すべき国という認識を持つ原因となったのである。

 秀吉の朝鮮出兵により、朝鮮と明は日本に対し海禁政策を実行する。朝鮮は釜山一港のみを開港し日本人の立入りを禁じ、明においては江戸幕府の再三の要請に応じず、勘合貿易は復活せず日本人の国内立入りを厳しく禁止した。よって朱印船は東南アジア諸国に向かうこととなり、各地に多くの日本人町ができた。

 一方、日本国内では南蛮貿易により浸透していたキリスト教を、江戸幕府支配への脅威とみなすようになっていた。キリシタン大名も出現し、宣教師が煽動した一揆も続発していたためであるが、1612年にはキリスト教の禁教令が出され貿易船の来航そのものを禁じた。秀吉の朝鮮出兵の影響から、家康は朝鮮が明と連合して報復に来ることを警戒していた。第三代将軍家光が踏み切ったこの「鎖国」政策は、朝鮮と明の対日「鎖国」への対抗、また両国連合軍に対する安全保障上の措置でもあった。

 ここで「鎖国」の表現について。「鎖国」とは1801年に志筑忠雄が出した翻訳書「鎖国論」で初めて使われ始めた表現である。原本はドイツ人医師のケンペル著「日本誌」であるが、「自国人の出国、外国人の入国を禁じ、世界諸国との交通を禁止する」状態を指した。しかし、実際には4つの対外窓口が江戸幕府治世下には存在した。そこでは精力的に貿易と情報収集が行われていたことから、完全な封鎖と孤立をイメージさせる鎖国という言葉は史実にそぐわないのではないかという意見も近年出されている。

①長崎:「出島」でオランダ商人と貿易、「唐人屋敷」で中国商人と貿易

松前藩アイヌとの貿易。アイヌは中国の東北地方およびそれを通じてのロシアとの交易品を流通させた。

対馬藩:朝鮮との外交。「朝鮮通信使」が定期的に江戸参府し幕府も使節を送った。釜山港には「倭館」が設置され、対馬藩の役人と商人が駐在した。

薩摩藩:1609年琉球王国に侵攻し支配下に置くと、江戸に琉球謝恩使を参府させた。中国との宗属関係にあった琉球王国は、北京に2年に1度派遣していた進貢使が帰国すると琉球国王に報告し、直ちに薩摩藩にも中国情報を報告した。

 「鎖国」という言葉のイメージとは違い、江戸幕府の対外関係は当時の閉鎖的な東アジアの中ではグローバル的であったといえ、世界の情報を精力的に収集していたことが「風説書」存在から明らかになっている。風説書とは新聞でいうところの国際面のような役割を持っていた。幕府は長崎に入港する全ての中国商人とオランダ商人に対して、長崎奉行に海外の情報を報告する義務を課していた。鎖国下でも通訳と翻訳官は養成されており、報告書の翻訳は完成後直ちに飛脚便で江戸へ運ばれた。

 一方、中国では1616年北方の異民族である「女真族」が後金を建設し、1636年国号を「清」と改め第二代ホンタイジが皇帝を名乗り明と対立、1644年順治帝が北京を占領し明を滅ぼした。この政変は「夷」が「華」にとって代わるという大事件であった。朝鮮においては「小中華思想」を掲げ正統儒教を守ることで精神的に清に対抗しようとし、日本においては琉球や朝鮮に朝貢に似た義務を課すなど、清朝初期の東アジアでは中心点の分散、華夷思想の重なり合う現象が見られた。東南アジアでも清朝との対等意識が芽生え国民国家形成の素地が形成された。

 しかし、順治帝の第3子である康熙帝西洋文化や科学を積極的に取り入れ、中国文明と融合させ文化発展に大きく貢献した。続く雍正帝乾隆帝の三代133年の治世により、清朝は再び華夷的秩序の構築に成功したのである。近代以降から現在までの中国指導者が繰り返し目指してきた「中華の復興」とは、この時代の中国であった。

 清朝は1644年、中国支配を開始すると同時に厳重な海禁政策を実行する。その目的は海外からの情報遮断であり、異民族支配(少数による多数の支配)の貫徹にあった。この点も江戸幕府鎖国とは異なる。中国にとって貿易とは朝貢貿易であり、「劣る外国に対する一種の恩賜」という国際感覚にたっていた。清朝は自ら積極的に貿易に関与しなかったが、農業を中心とする自給自足の自然経済がそれを可能にしていた。この国際感覚は、自由貿易体制と国際法に基づく国家関係の確立を目指す西洋との間に摩擦を生むこととなる。

 朝鮮も中国同様、海禁政策をとっていたが、清朝が明にとって代わると朝鮮こそが儒教の伝統を継承する小中華であるという「小中華思想」(大中華=明)を精神的支柱とした。その自負は19世紀の鎖国思想、事大主義*へと結びつき朝鮮の開国は遅れることとなったのである。

 *事大主義:自分の信念を持たず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度、考え方。